衆院選の嫌われ者?「ゾンビ議員」が持つ大事な価値
朝倉 継道
2024/11/06
「選挙イヤー」の2024年
今年はアメリカ大統領選はじめ、世界中で重要な選挙が目白押しな「選挙イヤー」となった。そこに、先日はわが国の衆議院選挙も割って入った。結果は、ご存知のとおり、政権与党の議席が過半数割れする事態となった。これにより、現時点で(24年11月冒頭)政局は混沌とした様相を呈している。この記事では、当該選挙結果に絡んで、思うところをひとつ記していきたい。
ゾンビ誕生
このたびの衆院選において、筆者の暮らす埼玉7区の小選挙区では、前職のK候補が得票数1位となり、当選を果たしている。K候補の届出政党は立憲民主党だ。この人の当選は筆者としては予想どおりの結果だった。理由は単純で、街頭演説が盛り上がっていた。聴衆の熱気が高まり、周囲を覆っていた。「彼女が勝つだろう」と思ったが、呆気なくそうなった。73,293票を獲得している。
一方、こちらも前職で、今回小選挙区2位に甘んじた届出政党・自由民主党のN候補の街頭演説は、いまひとつ冴えなかった。一旦立ち止まった通行人も多くは足早に去り、候補者本人も、応援に駆け付けた有名国会議員なども、いずれも覇気が乏しい。N候補はいわゆる地盤の堅い人だが、選挙戦を通して与党に吹き付けた向い風に対してはいささか苦労の様子が見えた。「彼は負ける」と思ったが、案の定、落選となった。それでも票数は66,498まで伸ばしている。
さて、そんなかたちで明暗分かれたK氏とN氏だが、結果として2人は揃って議席を手にしている。理由はご承知のとおりだ。衆院選においては、小選挙区と比例代表双方への重複立候補が認められている。今回、小選挙区で落選したN候補は、これによって復活当選した。ただし、国会議員としての活躍の場は確保できたものの、一度死んでから生き返ったいわゆる「ゾンビ議員」であるとして、今後揶揄されたりもする気の毒な立場となっている。
ゾンビ議員の価値
「なぜ選挙に負けた者に議席を与えるのか」と、ゾンビ議員は世間でよく怒りの対象となる。しかしながら、筆者はゾンビ議員の存在には少なからず価値があると思っている。ゾンビ議員は存在していい。というより、現制度下においてはむしろ存在したほうがいい。
理由は、小選挙区制の持つ抜きがたい欠点にある。1つの選挙区につき1人の当選者のみを選ぶこの制度は、いくつかの利点とともに見過ごせない問題点も抱えている。それは、大量の死票を生みやすいことだ。死票とは、選挙において落選した候補者に投じられた票をいう。死票が生まれることで、そこに込められた民意は消滅する。何ら意味も力も持つことがないまま、いわば捨て去られる。
たとえば、埼玉7区に話を戻そう。以下は、全候補者の選挙結果と得票数だ。
1位 K候補 | 73,293票 | (小選挙区当選) |
2位 N候補 | 66,498票 | (小選挙区落選・比例代表復活当選) |
3位 I候補 | 27,266票 | |
4位 S候補 | 17,541票 | |
合計得票数 | 184,598票 |
そのうえで、死票を数えてみよう(本来の死票――N候補の復活当選が無いとして)。2位のN候補、3位のI候補、4位のS候補の得票数を足し合わせてみる。
すると、答えは111,305票となる。この数字は、1位のK候補の得票数をはるかに上回っている。率にして1.5倍を超えるものとなる。
よって、やや突き詰めていえば、わが埼玉7区の民意は、その総意として必ずしもK候補のみを地域の代表に選んだとはいえないことになる。なぜなら、繰り返すが「K候補が当選者にふさわしい」とする民意は「K候補以外の人がよい」という民意の1/1.5―――つまり2/3にも満たないからだ。
すると、このまま上記の結果どおり、K候補のみが埼玉7区の民意を代表するものとして国政の場に送られてよいかといえば、その判断はかなり危ういものとなる。
これが、小選挙区制の重大な欠点だ。
よって、多数の死票が常に生じうるというこの欠点を補うために、小選挙区制を採る国の多くにあっては、それぞれさまざまな工夫を講じている。
そうした内、わが国では、小選挙区制に比例代表を加えた「小選挙区比例代表並立制」と呼ばれる方式が採られている。
そのうえで、件(くだん)の重複立候補、および、惜敗率を基準とした復活当選、すなわちゾンビ議員の出現を許すことで、民意をすくい上げるための網をより大きく、かつ効率的なものともしているわけだ。(惜敗率=候補者の得票数を同じ選挙区で最多得票した当選者の票数で割ることにより算出される数字)
つまり、ゾンビ議員には、民意の妥当な体現という意味で少なからぬ存在価値がある。
彼らにあっては、かつての中選挙区における2位以下での当選議員のように胸を張って当選を喜べない気まずい雰囲気もあったりするが、しょんぼりすることはない。
なぜなら、たとえば埼玉7区の場合、N候補がゾンビになってくれたおかげで今般選挙に示された民意の約76%が国政の場に反映されることとなった(K候補だけだと約40%)。
これは、俯瞰して見ればまさに妥当な数字であり、線引きといえるだろう。
勝手に退路を断たれては民主主義が弱る
以上のような観点から、筆者は、衆院小選挙区における候補者が「背水の陣」「退路を断つ」などと銘打って、あえて比例代表への重複立候補を避けたり、政党がそういったスタンスを候補者に課したりする行為が好きではない。
要は、それで落選すれば、その候補者は託された民意を巻き添えに心中することになる。その人の惜敗率が高く、重複立候補していればゾンビになりえた場合、民意の損失という点で民主主義への害が少なくない。
そこで、現状、各政党におけるこのことへの対応を見ると、「全ての小選挙区候補者に重複立候補を認める」とする党が1つあって、それは国民民主党となる。
また、れいわ新撰組も「比例代表中心の選挙制度を目指す」としたうえでの「原則重複あり」を表明している。
これらの考え方について、ロジックや背景が筆者と似通っているのかは判らないが、いわば「若い」政党である2党の意見が似ていることは、ここではやや興味深い感じがする。
(上記2党の表明については、産経新聞の報道に拠らせてもらった)
選挙は途中の手続き
以上、このたびの衆院選に絡み、いわゆるゾンビ議員について私見を述べた。
ちなみに、今回、小選挙区東京15区では、3位で落選した候補者がゾンビとなって復活し、議席を手にした一方、2位の候補者が無所属ゆえに比例代表名簿に名前を載せられず、涙を呑んだ事例が生じている。この候補者は、得票数において1位の候補者に僅差で迫る大健闘を見せていた(惜敗率98.3%)。
両候補者ともいわゆる有名人であるため、以上は話題にもなっているが、こういったケースもまた、民意を汲み取るうえでよいことではない。制度の手当てが必要だ。
選挙の勝ち負けを観るのは面白いが、勝ち負けが終着点であるスポーツの試合と混同するべきではない。
ゾンビ議員は、われわれのエクスタシーを削ぐ意味でときに鬱陶しい存在だが、選挙は本来「結果」ではないのだ。
民主主義によって、われわれが幸福を追求するための過程的手段であり、あくまで途中にある手続きにすぎない。
(文/朝倉継道)
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この記事を書いた人
コミュニティみらい研究所 代表
小樽商業高校卒。国土交通省(旧運輸省)を経て、株式会社リクルート住宅情報事業部(現SUUMO)へ。在社中より執筆活動を開始。独立後、リクルート住宅総合研究所客員研究員など。2017年まで自ら宅建業も経営。戦前築のアパートの住み込み管理人の息子として育った。「賃貸住宅に暮らす人の幸せを増やすことは、国全体の幸福につながる」と信じている。令和改元を期に、憧れの街だった埼玉県川越市に転居。