山菜探しは遊び? 仕事? 週末田舎暮らしの「暮らすこと」自体を楽しむ暮らし
馬場未織
2016/03/11
フキノトウが終わると春がなだれ込んでくる
里山に、彩りの戻る季節がやってまいりました。
田舎暮らしの醍醐味のひとつには、季節の美味しいものとの出会いがあります。春、道端や土手に生えるこれらの野草を見つける楽しさは、畑での野菜づくりとはまた違う喜びがあります。
今年は1月が暖かくて、きちんと冬景色になったのは1月末でした。大寒波がやってきたところでほとんどの雑草が枯れ、草刈りの必要がない心静かな日々がすこし続きましたが、そんななかでもちゃんと次の季節を運んでくるものがあるんですよね。
春一番乗りなのは、フキノトウ。
まだ霜が降りるし、まだ雪も降る、といっているうちから芽を出す彼らを、どれだけ待ち望んでいるか! だって、特別に濃い、命の味がしますから。
フキノトウが終わると、そこから一気に春がなだれ込んできます。
ノビル、セリ、ヨモギ、タラの芽、ゼンマイ、ウド。命の季節の到来です。田舎暮らしを始めたらもう、これらをスーパーで買ったりなんかしません! 全部、近所の野山で調達できるという贅沢よ。一日中うろうろして、宝探しのように見つけ続けます。
これって、遊びなんでしょうか? 楽しいんですけど。
それとも、食料を見つけるわけだから、仕事なんでしょうか?
里山暮らしの「遊び仕事」
さらに5月になると、梅の木にたわわに実がなります。
そのぷっくりと赤らんだ梅の実を見るだけで、もう、とらずにはいられない気持ちになる!
「梅作業」は、大事な年中行事です。どんなに忙しくても、家族総出で梅の実を何キロも収穫し、すぐに梅干しや梅酒、梅ジュース、梅ジャムなどへと加工します。
これって、けっこうな仕事量なんです。わたしの場合は、スケジュール帳に「梅」と予定を記入しているくらい。多忙な日々のなかでこれらがノルマみたいに重なってくると、正直、しんどいなあと思うことだってあります。でも、1年間の梅食品は、その時期にがんばってつくらないと味わうことができません。
大変だけど、楽しい。楽しいけど、大変。
ノルマじゃないはずなんだけど、やらずにはいられない。
そんな、自然のある暮らしのなかで生まれる作業のことを「遊び仕事」というそうです。
「遊び仕事」とは、金銭収入や経済的な面では期待できないけれど、まったく経済性や成果物がないわけではなく、遊びが原動力になりながらも暮らしのだいじな要素になっている仕事のことです。
だいたい、里山の季節仕事は、仕事と遊びの境目が不明瞭です。
落ちている栗をどんどん見つけてポケットに入れていくのも、魚や貝をとるのも、自然薯を掘り出すのも、山菜やキノコを探すのも、始めたら止まらない楽しさがあります。まるでゲームのように「ここにもあった!」「これもゲット!」と獲得しながら、自然と植生を覚えていったり、その色形や匂いを愛でます。そうするうちに、教科書には載っていない知識や経験が増え、土地への愛着も増していきます。
自然のなかから食べ物を調達することと、自然を愛でることが、表裏一体となっているのです。
何のために、「仕事」をするんだっけ?
都市生活のなかでは、お金をもらうのが「仕事」、お金をもらわないのが「遊び」、という風に考えるのが一般的ですね。
お金をもらうと「責任」が発生する、だから「真剣」にやる。
お金を貰わないと「責任」はないから「真剣」でなくてもいい。
そんな切り分けをするなかで、「仕事は遊びじゃないよ」なんて言い方もします。
ただ、遊びが楽しいのは、好きでやっている、という要素が大きい。好きでないことをさせられるのであれば、それはお金をもらっていなくても遊びとはいえません。
逆にいえば、仕事だって、好きでやっていると楽しいものです。本来は、好きなことだけをやって稼げたらいいのでしょうが、大抵は「お金を得るんだから、楽しくなくてもやらなければならない」「それが生きるということだ」と納得しながら生きていきます。
田舎暮らしでの「遊び仕事」は、確かにお金を生むことはありません。
ただ、獲った山菜、獲った魚などが、ちょっぴり暮らしの足しになる。そして、精神的には大きな満足感が得られます。昔の人は、それがそのまま生業の一部になっていたわけですから、立派な仕事だともいえます。
そこでふと、わたしたちは今、そもそも何のためにがむしゃらに仕事をしているんだっけ、と考えたりします。
本来なら、暮らしを立てるため、生活を豊かにするため、つまり幸せになるためにするものでしょうが、「お金」をたくさん生むことが価値であると決められた瞬間に、目的がすり替わります。
日々の暮らしが、「お金を得る」という目的に向かった「仕事」に染められていく。これが、ちゃんと、日々の幸せの実感とつながっているだろうかと、原点に返って素朴に疑問に思うわけです。
何のために働いているんだろう。
何が幸せなんだろう。
そんなこと、なかなか考えないものですが、山菜採りがあまりにも楽しかったり、野良仕事をする暮らしに妙に満足感を覚える時、わたしたちが現代社会に生きる大前提にしている資本主義社会について思いを馳せてみることがあっても、いいかもしれませんね。
現代社会に違和感を持った人たちのなかには、小さなナリワイ、つまり「遊び仕事」みたいなものをいくつかかけ持ち、自由に、小さく、楽しく生きていく術を身につけている人も出てきています。
この記事を書いた人
NPO法人南房総リパブリック理事長
1973年、東京都生まれ。1996年、日本女子大学卒業、1998年、同大学大学院修了後、千葉学建築計画事務所勤務を経て建築ライターへ。2014年、株式会社ウィードシード設立。 プライベートでは2007年より家族5人とネコ2匹、その他その時に飼う生きものを連れて「平日は東京で暮らし、週末は千葉県南房総市の里山で暮らす」という二地域居住を実践。東京と南房総を通算約250往復以上する暮らしのなかで、里山での子育てや里山環境の保全・活用、都市農村交流などを考えるようになり、2011年に農家や建築家、教育関係者、造園家、ウェブデザイナー、市役所公務員らと共に任意団体「南房総リパブリック」を設立し、2012年に法人化。現在はNPO法人南房総リパブリック理事長を務める。 メンバーと共に、親と子が一緒になって里山で自然体験学習をする「里山学校」、里山環境でヒト・コト・モノをつなげる拠点「三芳つくるハウス」の運営、南房総市の空き家調査などを手掛ける。 著書に『週末は田舎暮らし ~ゼロからはじめた「二地域居住」奮闘記~』(ダイヤモンド社)、『建築女子が聞く 住まいの金融と税制』(共著・学芸出版社)など。