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まちと住まいの空間 第29回 「ブラタモリ的」東京街歩き⑥――新しい街歩きの楽しさを発見できる銀座~丸の内

岡本哲志岡本哲志

2020/10/27

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コンセプトの違う丸の内と銀座

今回でひとまず締めくくりとなる「ブラタモリ的」東京街歩き、最後は銀座と丸の内。2つの異なる番組で取り上げられた街を合体する。


汐留にある電通本社の上層階から見た銀座と丸の内

どうして合体する意味があるのかとの問いもあろうが、まずは読み進めてもらいたい。

江戸時代の土地利用は銀座が町人地、丸の内が武家地と、街をつくりだす空間の仕組みは大いに異なる。

近代以降も、銀座は煉瓦街の西洋風街並みが明治5(1872)年から明治10(1877)年にかけてつくりだされ、商業空間として確固たる地位を今日まで築きあげてきた。一方の丸の内は、三菱2代目社長の岩崎弥之助が「虎でも飼うか」と豪語し、まさに百年の計で世界有数のビジネスセンターとして躍進する。「ブラタモリ」の番組で扱われた銀座と丸の内も、異なるコンセプトで制作された。

そもそも「ブラタモリ」は、東京の街をどのように選び、番組として放送しようとしたのか。担当者ではないので真意は定かではないが、「ブラタモリ」の制作に携わる方たちとの話を繋ぎ合わせると、私なりの推測が多少できる。

例えば、東京で「ブラタモリ」をやるうえでは、銀座が外せない街として、はじめから有力候補に上がっていた。それは第1シリーズ4番目の登場からもうなずけるし、パイロット版の原宿・表参道編(2008年12月14日放送)が放送されてからほどなくスタッフが銀座のリサーチをはじめていたと聞くからだ。一方丸の内は、全く候補にも上がっていなかった。

2009年の秋もだいぶ深まったころ、銀座を担当したディレクターから「今度、池袋・巣鴨をやりますが、旧古河邸で出演してくれませんか」と、自宅近くの最寄り駅(自宅から20分も歩きますが)にある喫茶店で会った時に打診された。その時、すかさず「池袋・巣鴨なんて面白くないよ。丸の内だよ!」と熱く語ってしまう。気がつけば、ディレクターの携帯電話を借りて三菱地所の三菱一号館竣工展覧会担当者に電話をしていた(私は携帯電話を所持せずに生きているので)。

丸の内でのアクシデント

ここまでの文章を少し補足すると、2009年秋に三菱一号館美術館の建物が竣工し、その竣工展覧会が翌年の春まで開催されていた。


三菱一号館竣工展覧会での展示の様子

私は、竣工を記念した展覧会と三菱一号館美術館1階に設ける資料館、この両方の監修を任された。3年をかけた準備を経て、丸の内に対する思いがまさに頂点に達していた時期だった。

携帯電話の先では、三菱地所のO氏から「最大限対応します!」との力強い言葉が得られた。目の前にいるディレクターも番組編成会議(実際どのように呼ばれていたかはわからない)に持ち込まなくてはならない状況へ。今にして思えば、自身のやり過ぎを現在大いに反省している。ただ一方で、私の勢いがなければ「ブラタモリ丸の内編」は成立しなかったとの思いも強い。

丸の内編の放送が終わった後、ディレクターと「ブラタモリ丸の内編」について話す機会があった。「丸の内の制約条件の厳しさが想像をはるかに超えていました」と、撮影時のコメントが返ってきた。強引にねじ込んだことから、このコラムでも銀座と丸の内を融合させた微地形の話ができる。

「ブラタモリ丸の内編」の撮影ではアクシデントが起きた。

それは、馬場先通りの中央分離帯から、皇居方面を見た明治後期の絵はがきと、目の前に見える馬場先通りの風景とを重ね、「一丁倫敦(ロンドン)」になるプロセスを私が語っている最中だった。


皇居の方面を望む明治後期の馬場先通りの街並み

3人のうしろで「ガチャン!」と大きな音。撮影許可は取っていたものの、不意を突かれて大いに慌てた。集音の担当者をはじめスタッフの人たちは、そのシーンのやり直しを考えていたと思う。

別方向からは、時間をおかずに「そこで何やってんだ!!」とパトカーの拡声器から大きな声。何が起きたのか把握できないまま、馬場先通りでの撮影は中止。そそくさと三菱一号館美術館1階にあるカフェに入り込む。カフェでもじっくりと話が展開する予定だったが、タモリさんともども落ち着きなく話を切り上げてその場を退散。その時、久保田祐佳アナウンサーの「お茶はしないんですかね?」との現状を超越したボケに一同ほっとする。

この話を聞けば、馬場先通りの路上からカフェまでのぎくしゃくとした流れに思いあたる人もいるかもしれない。もう一度「ブラタモリ丸の内編」を視聴する機会があれば、要確認のシーンとして推奨したい。

晴海通りが繋ぐ江戸前島と日比谷入江

「ブラタモリ銀座編」では、銀座通りと晴海通りが交差する銀座四丁目交差点に立つ。銀座通りが微高地であり、江戸前島の尾根に通された話を展開。


京橋にあるイナックスビル上層階から見た銀座通り(手前が銀座一丁目)

微地形(5万分の1や2万5000分の1縮尺の地形図上で明明確にはわからない微細な起伏をもつ地形)から銀座を捉えた視点は、これまでになかった。銀座は高低差があり、平らじゃないと知ったタモリさん、俄然「やる気」のアドレナリンが満ちてくる。

まずは銀座四丁目交差点から築地方面が低くなっていることを確認。次に数寄屋橋交差点付近から、低い日比谷公園方面を確かめる。


数寄屋橋交差点から見た日比谷公園方向に僅かに下る晴海通り

ここですかさず久保田アナウンサー、「銀座に高低差があることはわかったのですが。ここは、喜ぶべきところなのでしょうか」とタモリさんに再び強烈なボケ。これは、天然なのか、才能なのか。あるいは、単に一般視聴者を代弁したに過ぎないのか。絶妙過ぎてよくわからない。

タモリさんは「当然!」と切り返し、高低差を肌で感じ、喜びを満面に浮かべる。日比谷公園に通じる坂道を「前島坂」と命名。ただこの坂名、現在通用する名かどうかはよくわからない。もう死語になっているかもしれない。それはともかく、銀座(銀座四丁目交差点の尾根)と丸の内(日比谷公園内の窪地)が坂道(晴海通り)で結ばれていたことをそれぞれの思いで実感する。

微地形にこだわれば、銀座と丸の内を同時に語る違和感はない。美空ひばりの「川の流れのように」がバックに流れ、地形の低い日比谷交差点近くでタモリさんが一言。「人は低いところへ低いところへ流れて行くものですよ」と、桜田門外の変で井伊直弼を切った水戸浪士が傷つきながら逃げる行動パターンを分析。

歴史をさらに遡り、徳川家康が江戸に入府する以前の原風景に。晴海通りの連続断面をイメージすると、微高地の銀座と入海の丸の内、自然がつくりだした微地形の風景として一体化する。


徳川家康入府以前の現地形と寛永後期の比較

「ブラタモリ」だからこそ、テンションが上がる題材として意味を持つ。

晴海通りを通して太古の風景へ

超高層ビルが林立する現代東京に残り続ける「微地形」は、銀座と丸の内が融合することで、10年以上前の番組だが新鮮な気持ちで見直せる。単なる番組のリプレイではく、新たな見え方として、ブラタモリという番組を進化させられる。

日比谷入江だった日比谷公園内では、心字池が歴史の記憶を呼び覚ます。


太古まで遡れる日比谷公園内の心字池の水面

この池の窪みは氷河期が原型。内海(現・東京湾)から外海(太平洋)に出る浦賀水道あたりまで陸化し、古東京川に流れ込む旧平川が削り取ったものだ。海面下となる縄文後期の海進を経て、川としての形状が再び浮かび上がる。

江戸時代にはその川の痕跡を活かして掘割とした。その掘割が明治36(1903)年に近代公園となり、日比谷公園内の池として水面が残り続ける。このようなプロセスを番組ではCGで再現した。

銀座と丸の内(日比谷といったほうがよいのだが)を結ぶ晴海通りは、1940年に開催が予定されていた万国博覧会の主会場となる埋立地の晴海と都心を結ぶ新たな都市軸として広幅員の道路が整備された。


1940年万国博覧会と晴海通り

昭和初期の新しい道路である。今でも、晴海通りの幅は広すぎ、あまり歩く気にはならない。晴海から銀座を東西に縦断して日比谷公園まで歩こうと思いつく人はあまりいない。これが最高の街歩きだと自覚する人もまずいない。

ただし、面白いかどうかの判断は、頭で考えて選別してしまうとうまく理解できないものだ。都市空間の面白さを感じるには体験が近道。新鮮な気持ちで、一度銀座四丁目交差点から日比谷公園まで、微地形を体感しながら晴海通りを歩いてみたらいかがか。さわやかな空気が視界の先に漂い、街歩きの楽しい1ページとなる。その時、これまでの固定観念が打こわされる。 

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「ブラタモリ的」東京街歩き⑥――新しい街歩きの楽しさを発見できる銀座~丸の内

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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