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まちと住まいの空間 第26回 「ブラタモリ的」東京街歩き③――高低差、崖、坂の愉しみ方:赤坂・六本木編

岡本哲志岡本哲志

2020/07/31

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NHK番組「ブラタモリ」は、タモリさんの好きな坂道をどう描けるか、「東京の街を読み解く」糸口として、坂道は番組独自のメッセージとなり得るか、番組を視聴しながら探る坂道の位置づけは興味深い。番組での坂道の描き方が吉と出るか、凶と出るかは、「ブラタモリ」という番組を愉しみ方のひとつであろう。

前回の連載25回目では、スポットとして魅力的な坂道をフォーカスした番組を取り上げた。今回は赤坂と六本木を取り上げてみたい。

赤坂はなかなか素敵な坂道に出会える場所だ。ただ、番組では複数の坂をコンビネーションさせて、坂の宝庫である赤坂を印象づけようとした内容になった。一方、六本木はどうか。現代に出現する巨大再開発プロジェクトと抱き合わせ、坂道を登場させた。六本木ヒルズの再開発で失った坂の痕跡にフォーカスした。

コンビネーションで坂道を登場させた赤坂

2010年3月4日放送の「ブラタモリ―赤坂編」は、坂道の他にも、赤坂離宮(紀州家居屋敷跡)、溜池跡と石垣(延岡藩内藤家上屋敷)、すでに失われてしまった伝説のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」(松江藩松平[越前]家上屋敷)、赤坂の花柳界で生き残る料亭と、食いつきのよい話題を連発する。番組の目玉づくりにはこと欠かないが、場所が坂の多い赤坂だけに、タモリさんの好きな坂道を出さないと不自然さが募る展開である。

赤坂あたりは台地を削るように幾つもの小さな谷戸ができており、坂の多くが近接している。続々と繰り出される興味の尽きない他のテーマに対抗するように、コンビネーションによる群としての坂道が映像化された。


赤坂の江戸時代の土地利用と複雑な地形に成立した坂道

赤坂で最初に登場する坂道は、V字を描く形が薬を砕く薬研に似ていることから名づけられた薬研坂。


薬研坂

続いて、米倉丹後守(米倉昌尹、1637〜99年、1696年に若年寄、1万石大名)の屋敷があったことに因む階段状の丹後坂、元禄8(1695)年に付近から坂上南側に移転してきた寺院、円通寺の名称をとった円通寺坂、そして急勾配で湾曲する三分坂と、連続的に坂がテレビ画面に映し出された。

このなかで一番新しい坂は、稲荷坂とともに元禄年間(1688〜1704年)に開かれた丹後坂である。薬研坂と丹後坂は坂の映像のみで、タモリさんたちの姿はない。円通寺坂は、楽しく会話しながら坂道を上るシーンだが、会話の音声はない。三分坂では急勾配の坂をタモリさんたちが語らいながら下る。こちらは、音声が入り、他の坂と比べ熱が入る。

映像からの私の勝手な思い込みだが、『タモリのTOKYO坂道美学入門』(2011年刊行)に登場する坂道が三分坂だけで、タモリさんは三分坂以外このあたりの坂にあまり興味がなさそうに見えた。タモリさんの好きな坂道を事前にリサーチしておけば笑顔のタモリさんのシーンが数多く撮れたかもしれないが、やはり「ブラタモリ」がそこにおもねっては番組スタッフとタモリさんが対置するスリリングな面白さを欠くことになる。

『タモリのTOKYO――』では、タモリさんの好きな「三分坂」は「湾曲」で5つ星を取得する。「由緒」も江戸中期からある「練塀(築地塀)」があることから5つ星だ。


報土寺の「練塀」と三分坂

報土寺は、慶長19(1614)年に、赤坂一ツ木(現・赤坂二丁目)に創建された。その後境内地が幕府用地となり、安永9(1780)年に三分坂下の現在地に移転してきた。三分坂沿いにある築地塀は、報土寺が移転した時につくられたもので、江戸の姿を今に伝える貴重な建造物である。「三分坂」は急勾配だが、どういうわけか『タモリのTOKYO――』では勾配の評価が星4つとやや低め。江戸情緒になると、3つ星とさらに下がる。報土寺に面する以外、坂沿いの風景が江戸情緒をあまり感じさせないことから、勾配の評価にも影響したのだろうか。そのような思いが浮かぶ。

報土寺で展開するシーンでは、「ブラタモリ―上野編」にフル出演した寛永寺の住職と全く異なるキャラクターを持つ住職がタモリさんに迫る。寺の住職は、しゃべりが商売といったらいい過ぎか。落語家、建築家、お笑いタレントとともに、しゃべり倒す勢いは共通するように思えるのだが。

番組は、報土寺に墓がある雷電為右衛門にまつわる話で盛り上がりを演出。明和4(1767)年に信州(長野県)小諸に生まれた雷電為右衛門は、相撲取りの資質が並外れていたという。当時最高位だった大関を三十三場所つとめ、寛政2(1790)年から引退までの22年間で二百五十勝十敗と驚異的な勝率を残した。ほとんど負けていない。その履歴が語られた後、当時の住職との酒相撲を話題にし、住職が勝利する意外性で坂道のテーマは終わる。坂道ファンにとっては多分に拍子抜けかもしれないが、視聴率は13%を超えていた「ブラタモリ―銀座」を僅かに抜いて最高視聴率に輝いている。

再開発に翻弄されながらも残る坂道のある六本木

10年3月11日に放送された「ブラタモリ六本木」は、番組の前半と後半でテーマががらりと変わる。前半は軍の施設の痕跡を追う。後半は、再開発と関係づけて坂道をテーマとした。牧歌的に坂道を描いた赤坂と比べ、六本木は社会派風に再開発とからめて坂道を登場させた。


六本木の江戸時代の土地利用と後に再開発に翻弄される坂道

赤坂と六本木、担当するディレクターの色が坂道の扱いに出ていて面白い。

六本木の前半は、開発で新たに誕生した施設を扱う。放送当時の話題性の高さでは、東京ミッドタウン(07年開業、萩藩毛利家下屋敷跡)と国立新美術館(07年開館、宇和島藩伊達家上屋敷)となろうか。ホットな話題性から番組が組み立てられていく。

これら2つの施設は、明治期に大名屋敷から陸軍の施設に変化した。戦後は米軍に接収され、六本木がアメリカナイズされた街へと変わる。その間には、2つの道が平行する不思議な道、龍土町美術館通りがある。この通りは、薬研坂のようにV字をゆるやかに描く江戸時代の道では戦車が通りにくいと、高低差のない道をもう一つ新設したもの。平行する2つの道は軍の施設が集中する六本木をさらに印象づけるものとなっている。

坂道をキーワードにするとどうなるか。軍の施設と関連しない六本木ヒルズ(03年開業)が浮上する。それは、元の地形を活かして清水園を再現した優等生の東京ミッドタウンに対して、江戸時代の庭園を再現したものの、元の地形を改ざんして誕生した劣等生の六本木ヒルズという位置づけとなろうか。

六本木ヒルズのあるあたりは、窪地にある密集市街に至る内田坂がかつてあった。六本木ヒルズの開発で窪地が埋められ、坂道の形状がすっかり変わる。ただ、内田坂に下る階段状の細い坂道の一部が残る。


内田坂に下る階段状の坂道

番組ではその痕跡からスタートし、再開発前の光景を撮影した写真から当時の風景が映像で再現された。この着眼点は面白い。

変化の激しい六本木周辺。10年3月11日放送で映し出された風景は、10年間でさらに激変する。我善坊谷にあった組屋敷跡に成立していた住宅地が再開発の波にさらされていた。今後、谷筋には大量に土砂が入り、地形が改変されてしまうだろう。


再開発が進む我善坊谷

我善坊谷に至る一連のシーンは、タモリさんと久保田アナウンサーが鼬(いたち)坂(別名:鼠坂)を上るところからはじまる。犬の散歩で通り過ぎる女性に、犬を指差して「いたちでしょ」と連呼。この坂を上がる時、タモリさんはあまり気乗りがしない風だった。一本東側に「好きな狸穴(まみあな)坂があるのに、どうしてこっちの坂なの」とでもいいたげだ。

番組が収録された時、まだ出版されていなかった初版の『タモリのTOKYO――』には狸穴坂が選ばれている。勾配が星3つ、湾曲は星2つと、坂の形状では低い評価だが、江戸情緒と由緒は5つ星。坂の持つ雰囲気に、タモリさんはぞっこんということなのか。番組で放映されなかったシーンで、タモリさんは狸穴坂の魅力を語っていたことを思い出した。もう今となっては記憶があやふやだが、語っていた場所はロシア大使館前あたりだったことから、カメラを回していなかった。

担当ディレクターは、谷が確認できる鼬坂の坂上でタモリさんたちと岡本との出会いの場を設けた。このあたりの地形の複雑さを用意した粘土を使ってタモリさんと語り合ってもらいたかったのだろう。狸穴坂ではなく、鼬坂を選んだ要因でもある。09年、10年ころのブラタモリの台本はいたってアバウトで、突然と台に乗った粘土が渡されたに過ぎない。ディレクターの意図を汲み取れなかった私の失態だが、粘土を使っての面白い話に展開せず、番組では立体地図で補われた。

尾根沿いの通り(外苑東通り)を渡って三年坂へ。10年時点の三年坂上からの眺めは、我善坊谷の窪地に成立する住宅地があり、斜面上の台地に戦前の建築である麻布郵便局、背後に東京ミッドタウンと六本木ヒルズの超高層ビルが見えた。


再開発前の三年坂上から見た我善坊谷

この時点で、すでに土地の買収があらかた終わろうとしていた。タモリさんもこのあたりを何度もリサーチしていたようで、「ここも駐車場になったか」とつぶやく。19年秋に訪れた時には、我善坊谷(がぜんぼうだに)に建っていた家々がすっかり更地となり、台地上の麻布郵便局も解体が進んでいた。


我善坊谷坂から見た再開発エリア

麻布郵便局の跡には、300mを超える超高層ビルが22年に完成する予定である。

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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