平安から平成――集落形成はどのように行われたのか
岡本哲志
2019/10/09
宮城県の江島はもともと無人の島であった。『宮城県史 26』によると、島の切り開きの歴史が「薬師堂勧請記」に記されているという。そこには文治年中(1185~89年)奥州藤原氏三代当主・藤原秀衡の五男にあたる樋詰五郎が源頼朝に追われて江島に来て、久須師神社(当時は観音堂)を勧請した。その時、碑が刻まれた。江島の起源を探れる史料はこの碑だけだったが、現在その碑はない。言い伝えが残るだけである。
『陸前北部の民俗』には、樋詰五郎が島に入った時の戸数が7戸だったとし、そのうち6戸が今に続くと記してある。それらの家は、屋号「ジンクロド」の小山家、屋号「ゼンキド」の阿部家、屋号「イチペード」の稲葉家、屋号「セッショウド」の橋野家、屋号「ヨサンド」の小山家、屋号「ツルトミ」の斉藤家である。
江戸時代の江島は、仙台藩の領地として、中奥郡奉行の管轄下にあった。女川組の大肝入(煎)丹野家、後に木村家のもとで、江島に在住する木村家や斉藤家が肝入(煎)として江島を治めた。肝煎を務める木村家と斉藤家が江戸時代に分家を増やしていくが、その背景には豊富な私財の蓄積があったと考えられる。
1877年の姓を見ると、64戸のうち、木村姓が13戸(20.3%)、斉藤姓が9戸(14.1%)、小山姓が9戸(14.1%、切り開きの家が2戸ある)、中村姓が5戸(7.8%)と続く。もう少し詳しく見ていくと、阿部家(2戸)、稲葉家(2戸)、橋野家(1戸)の顔ぶれである。切り開きの家は、2番目の斉藤姓と3番目の小山姓の他、分家を1件出すが、橋野家のように分家を出していないケースもある。最も戸数が多い木村姓と4番目に多い中村姓は、江戸時代に江島に定着した旧家であるが、切り開きの家ではない。西側から伝わってきた先進的な漁法を取得して島に移り住み、分家することで勢力を拡大強化したと考えられる。木村姓は横浦をはじめ五部浦湾とその周辺に多く分布する姓である。豊富な漁場がある江島に分家を送り込んだ可能性がある。
1958年になると、戸数が64戸から143戸と倍以上に増える。切り開きとされる5つの姓は分家を出し、橋野姓が1戸分家をだして2戸とした他は、斉藤姓が17戸、小山姓が16戸、阿部姓が7戸、稲葉姓が7戸と戸数を大幅に増やした。
しかし、割合からすると、わずかだが切り開きの系列家が35.9%から34.3%と割合を下げる。木村家も30戸、中村家も11戸と戸数を増やし、28.1%から28.7%とわずかに割合を増やす。全体からすると、切り開きの家と江戸時代からの旧家が、6割強を占める。この割合は1877年からほとんど変わっていない。
江島は江戸時代から続く契約講が本家と分家との強い共同体意識を培ってきた。離島という特殊性のなかで、切り開きの家を残しながら、江戸時代に流入した人たちが加わり、一定の姓の数を保持してきた。
震災前と震災後、島はどう変わったか ――2011年と2015年の変化を見る――
図1、3.11直前(2011年)と2015年の建物比較
江島に入植した人たちの屋敷分布は東日本大震災の地震津波が起きる直前、2011年にどのような構成だったのか。不明な部分も多いが、次の3つに大別できる。切り開きの姓の系列、1877年以前からの旧家系列、1877年から1958年に新しく登場した姓である。1958年を過ぎると、新たな流入者はいなくなる。
2015年6月に江島を訪れた時、わずかに建物が残る現状を目にした。津波で建物がなくなったわけではなく、東日本大震災以降に取り壊されたのだ。取り壊された状況を知るために、震災直前の建物(母屋のみ)の立地状況を住宅地図帳(2011年1月版)から拾いだすと、92戸の建物がまだ江島に建ち続けていた(図1)。71.7%にあたる66戸が3.11以降に解体されたことになる。
図2、建物立地とその家の姓(2011年と2015年の比較)
解体された建物の39.3%にあたる26戸が建物に姓の記載がなく、震災直前から空家になっていた。2015年6月時点で解体されずに残る建物のうち、3つの建物も姓の記載がない。これらの空家は、完全に引き払ってしまったか、あるいは石巻、女川などの陸地側に本宅を構え、漁の時期に臨時に戻ってくる2つのパターンが考えられる。
ただ震災以降は、船を失った人たちが高齢ということもあり、借金してまで船の建造を新たにせず、漁業をあきらめるケースが多いと聞く。2011年時点では、姓が記載されている建物が63戸あったが、そのうち63.5%にあたる40戸が震災以降に解体され、わずか23戸の家に人が住むだけとなった。正確に把握できていないが、その23戸ですら、石巻、女川などの陸地側に本宅を構える二重生活を現在も行っている人も何人かいるはずである。
2011年と2015年の建物とそこの家の姓を比較しながら、変化を追うことにしたい(図2)。2011年時点では、1877年から1958年に新しく登場した姓が7戸あった。しかし、2015年では建物を残して居住する家が1戸だけとなる。残りの6戸は建物が解体された。江島での歴史が浅い分、離島しやすかったのだろうか。
1877年以前からの旧家系列の場合は、2011年時点で35戸あった。そのうち、2015年時点では12戸(木村姓4戸、中村姓2戸、その他6戸)が島に残り、23戸(木村姓11戸、中村姓3戸、その他9戸)が建物を解体して更地とした。3割強の人たちが島に残ったことになる。
最後に切り開きの姓の系列だが、2011年時点では21戸の家があった。そのうち、2015年では10戸(小山姓3戸、稲葉姓3戸、斉藤姓2戸、阿部姓1戸、橋野姓1戸)が島に居住し続け、11戸(小山姓1戸、稲葉姓2戸、斉藤姓5戸、阿部姓2戸、橋野姓1戸)が建物を解体している。半数近くの人たちが島に残った。しかも、切り開き6家の本家は維持されたと考えられる。このように見てくると、系列化して島に住み続けてきた歴史が古いほど、離島する割合が低いとわかる。なかでも、切り開きとされる小山姓、稲葉姓、斉藤姓、阿部姓、橋野姓はその長い歴史を継承するかたちとなった。
原発建設が島に与えた影響 ――1983年と2011年の変化を見る――
図3、2015年時点の建物立地とその家の姓(1983年と2011年の比較)
江島の姓の表示がされる最も古い住宅地図帳は、現状見つけられた範囲で1983年版のものがある。この時期は、戦後の島外転出の切っ掛けとなった女川原子力発電所建設の補助金を受けての転出がはじまる頃の状況を示しており、江島の集落構造を知る上で貴重な地図といえる(図3)。
女川原子力発電所建設の補償協定の調印は、1号機建設の1979年、2号機建設の1986年であった。震災が起きる直前の2011年から遡ること28年前である。こ2つの時期を比較すると、1983年時点で105戸あった建物の数が2011年時点で13戸減少した。空家は6戸あったが、2011年の25戸に比べると遥かに少ない。
空家となった姓は、1877年から1958年に新しく登場した姓が5戸、1877年以前からの旧家系列の姓が5戸(木村姓1戸、中村姓2戸、佐藤姓1戸、橋本姓1戸)、切り開き系列の姓が3戸(小山姓2戸、阿部姓が1戸)である。漁業に見切りをつけ、保証金を元手に石巻や女川の都市へ転出した。転出した家のうち、古くから居住する姓が多いが、それらの家は契約講からすると末端の分家筋と思われる。
姓が変わった家も4戸あった。1877年以前からの旧家系列の姓が2戸、切り開き系列の姓が2戸は新たな姓に変わっている。分家は必ずしも血縁関係だけではなく、契約講で結ばれて非血縁だが分家となるケースも少なくない。契約講で結ばれるメリットがなくなり、旧来の姓に戻した可能性がある。
江島の発展から衰退するまでのプロセス
写真1、初期段階の谷戸状にV字に切れ込んだ斜面開発 写真2、第2段階の高台の東側一帯の開発
ここまできて、江島の集落空間はどのよう形成され、発展拡大してきたのかが気になる。水道が引かれるまで、島の貴重な水源であった大井戸は港と居住場の間にあった。しかも水源に近いほど有利である。初期段階は、谷戸状にV字に切れ込んだ斜面を開発し、密度高く家を建てていった(写真1)。
いま一つ気になる場所は、階段状になったメインの道を上がり切った東側一帯である。比較的平坦な斜面地が広がり、V字の谷戸と異なり屋敷を比較的大きくゆったりと建てることができる(写真2)。南側にある山の斜面が迫っておらず、日差しを受けやすい場所となっている。比較的広い敷地に南向きの屋敷を建てられた。水汲みの不便さを除けば、島では最も居住環境がよい場所である。この東側一帯には、切り開きとされる小山姓、稲葉姓、斉藤姓、阿部姓の家が目立つ。第2段階として、多くの分家を出し、ゆとりのある土地に本家を中心に移ったと考えられる。
写真3、第3の久須師神社の裏から満願寺に至る間の土地開発
第3の新たな発展段階としては、2つの流れが見て取れる。一つは、久須師神社の裏から満願寺に至る間の土地が開発された(写真3)。このあたりは江戸時代以降分家を出して系列拡大をはかってきた木村姓が多く、新たな分家の居住場所として開発されたのではないかと思われる。
写真4、井戸と祠
いま一つは、荒薮の入江に下りて行く道筋に家が並ぶ。このあたりの開発も後発として行われた。浜に下りる道の途中に、共同井戸が掘られており、脇に祠が置かれていた(写真4)。近くで網の手入れをしていた漁師の方に話を聞くと、この共同井戸は江島で一番水質がよいと話していた。江島では、メインの道沿いにある大井戸だけが水源の話題として取り上げがちであるが、荒薮も水に恵まれていたことから家の立地が見込まれたと思われる。
こうした発展プロセスを経て、1983年以降新たな開発地から離島がはじまる。久須師神社の裏から満願寺に至る間の開発された土地は家が解体され、基礎が雑草に覆われた廃墟となってしまっていた。現在は第2の発展段階のエリアを中心に家が残るに過ぎない。
この記事を書いた人
岡本哲志都市建築研究所 主宰
岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。