震災と過疎化で変わる離島――島の記憶をたどる
岡本哲志
2019/09/09
写真1、久須師神社
江島の港からメインの道を上がると、道が幾つかに分かれる。そのひとつを右に折れ、階段状の細い道を上がって行くと「久須師神社」に行きあたる(写真1)。
この神社は、薬師如来を祀る薬師堂で、地元の人に「お薬師さま」と呼ばれてきた。明治28(1895)年に薬師堂が焼失する。再建に際して、村の鎮守の地位を五十鈴神社から引き継ぎ、「久須師神社」と改称した。神社の再建には、豊富な魚場を持つ江島ならではの話がある。一日の高級魚のアカウオ漁だけで、神社の寄進がかなったというのだ。現在の過疎化する離島では考えられないが、この時代は島の経済的な価値がしっかりとあった証だろう。
久須師神社の例祭は、薬師堂であったことから、お釈迦様誕生を祝う4月8日と決められていた。神社の例祭がお釈迦様の誕生日というのは、神仏習合していた時代のなごりを島民の方との会話から感じる。しかし、私が島を訪れた時は、石巻、女川など陸のほうに移っている子どもや孫を呼べるということから、5月5日の休日に例祭が行われようになっていた。ただ、過疎化は曜日の変更も無意味となりつつある。
久須師神社から山の方へ上がった木々のなかに、島にもう1つある神社「栄存神社」がある。そこではさらに江島の現実を突きつけられた。栄存神社は、17世紀に生きた禅僧の永存が流刑された地で、無念の思いで没した後に建立された栄存の墓所とともに、神社の周辺が島民の墓地となっていた。しかし、東日本大震災によって墓石は倒れ、いまも倒れたままの墓石が残るだけの光景を目の当たりにさせられた。震災後、修復されなかったのは、島民の多くが陸側へ移り、ご先祖の遺骨や位牌も同時に移してしまったからだ。
江島には立派な寺院、「満蔵寺」がある。天文12(1543)年に建立された歴史のある寺院である。建物は立派で、繁栄した島の一端が感じ取れる。境内には、長く続いてきた歴史を刻むように、碑に歴代の住職名が掘り込まれている。ここで住職に顔を出していただけるとほっとしたところだが、住職はすでに本土に移り住み無住職の状態が続く。人の影を感じさせない島での徘徊はここまでにして、再び久須師神社に戻ることにしよう。
祭が行われてきた久須師神社からの眺望
写真2、久須師神社から港を眺め
久須師神社からは、港や集落が見渡せる。夏の暑い時期、心地よい風が吹き抜ける。久須師神社例祭の時は、神輿が神社の境内を出て急な石段を下り、港で海中渡御した。その後、神社まで急な階段を戻る神輿ルートだった。ちなみに、江島の神輿渡御は、担ぎ手を含め白装束である。しかし、平成7、8年ころになると、担ぎ手もいなくなり、神社の前に神輿が置かれるだけとなった。
神輿渡御が終わると、神社の境内では神楽が舞われた。
江島の法印神楽は、雄勝十五浜と比べ新しく、大正8(1919)年に導入されたもので、修験であった法印との深い結びつきはない。だが、離島という特殊環境もあり、古い舞いが継承され続け宮城県指定無形民俗文化財となっている。この神楽も東日本大震災の2、3年前には神社の境内でやらなくなった。いまは陸側の女川町で神楽を保存する練習が行われ、東京などに呼ばれて舞うという。
港がよく見える久須師神社が置かれた場所は、日和山としての役割も担っていたのではないかと、心地よい風に吹かれながら脳裏を巡る(写真2、久須師神社から港を眺め)。そのことを裏づける話として、いまは神社の向かいは、社務所になっているが、以前は江島の漁業共同組合の建物があったという。その漁業協同組合も、いまは港近くに下りている。日和山との思いが確信に変わる。
江島の古民家
写真3、久須師神社と屋根に煙出の窓がある家
港に向けられていた視線を右の方へ転じると、石を積み上げたよう壁が帯状に層をなす。その上に主に平屋建ての建物が建つ光景が目に止まる。「煙出し窓」を屋根に設けた家である。それは煮炊きや暖を取る囲炉裏に薪をくべて燃えたときの煙を外に出す窓である。現在も残る28棟の建物のうち、7棟が屋根に煙出し窓があった(写真3)。
島に残る建物の屋根を見ていくと、ほとんどの建物はスレート葺き、瓦葺きである。前回登場した中道等氏の記述では、昭和初期に江島を訪れた時、萱葺き、藁葺きの屋根が多かったとしている。昭和41年に刊行された亀山慶一氏の論文「宮城県牡鹿郡女川町江島」によると、「屋根は杉皮・栗コバ・杉コバで葺き、それに石をのせてある。昭和25年ごろはスレート揖き屋根もかなり見られた。もとは萱屋根も一〇戸くらいあった。萱は岡のほうから運んできた」と書かれている。そのことから、萱葺きの屋根は戦後見られなくなっていたのかもしれない。
江島を特集した「朗 すまいとくらしの雑誌」の昭和35年8月号に当時の建物の特色を示す説明があり、「杉皮葺きの上に石を一面にのせてあるのがこの島の従来の屋根である」との記述を目にする。スレートが普及するまでは、杉皮葺きの上に石を一面にのせる屋根が江島の風景をつくりだしていたようだ。
2015年の調査では、久須師神社と古い建物で構成する集落空間の断片を切り取るために、実測を炎天下のなかで試みた。幸い、野帳を取っていた学生に家のなかで休むようにと、家の方が声をかけてくれた。その方(昭和15年生まれ)は、久須師神社の途中にある明治15年に建てられた古い建物に一人住まいであった(図1、図2)。先祖は切り開きの系列ではないが、江戸時代から江島に住み続けてきた姓の系列である。島で何世代も代を重ね、古い家を守り続けてきた一人である。
図1、久須師神社から古民家までの配置
図2、久須師神社から古民家までの連続立面
建物の間取りは、奥座敷の上を中2階に増改築しているものの、三陸沿いの伝統的な広間型三間間取りをしっかりと維持し続ける家である。「朗 すまいとくらしの雑誌」に出島が特集された時、当時の間取りも掲載された(図3)。
図3、昭和35年ころの間取り
その平面を見ると、明治15年に建てられてからほとんど変化を見せない様子が確認できる。この家はスレート葺きだが、昭和30年代頃は杉皮葺きの上に石を一面にのせた屋根であった。間取りと共に掲載された写真からわかる。
道側に設けられた玄関は建物正面の右側にあり、玄関を入るとすぐ土間になる。土間の左隣が12畳のオカミ(座敷)。オカミの左隣が6畳のザシキ(奥座敷)、その奥に4畳半の納戸が設けてあった。便所は外にあり、それは当時と変わらない。江島を歩き回っていると、そのような小さな外便所を発見する。家の前の細い道は洗濯物の干し場であり、魚を干物にするスペースにもなる。江島は、漁で得た財を投入して、急な斜面を巧みに利用しながら実に興味深い集落空間をかたちづくってきた。
この記事を書いた人
岡本哲志都市建築研究所 主宰
岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。