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「定年退食」藤子・F・不二雄――高齢社会を半世紀前に予見したマンガ

朝倉 継道朝倉 継道

2024/10/10

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藤子・F・不二雄の「予言の書」

「ドラえもん」の生みの親として知られる漫画家、故・藤子・F・不二雄の短編のひとつに「定年退食」という作品がある。

発表は1973年。はるか51年前となる。現在も刊行が続く「ビッグコミックオリジナル」に掲載されている。

ちなみに、同年、水島新司の「あぶさん」とジョージ秋山の「浮浪雲」の連載が同誌上で始まっている。浮浪雲は、筆者の母親がファンだった。つまり、ため息が出るほど遠い昔の話だ。

「定年退食」は、ちょっとした予言書としても知られている。

73年当時における数十年後の未来を描いた作品で、いわゆる近未来SFとなる。その内容は、半世紀余りの時を超え、ややゾッとするほど令和に生きるわれわれの胸に迫ってくる。

かいつまんで、ストーリーを紹介したい。なお、以下、ほぼネタバレとなるので、不都合の向きは電子書籍を先に購入するなどしてほしい。

国に「定員」が存在する社会

物語の主人公は老いたひとりの男性だ。年齢は74歳。姓は不明だが、名は「安彦」という。劇中の描写でそれと分かる。

安彦氏は、性格の穏やかな優しい老人だ。息子夫婦とおぼしき中年男女と共に暮らしている。孫は、すでに独立したのか、あるいは元からいないのか、とりあえず姿は見えない。自宅は広い庭に囲まれた一戸建てで、家族3人はほどほど円満な様子に見える。

とはいえ、この一家、実はかなり厳しい時代を生きている。この頃(73年から見た数十年後)、日本の国土は(それ以前に世界中ということだろう)拡大一方の環境汚染に侵され、その影響下、国民は深刻化していく食糧不足に悩まされ続けている。

対して、政府は「定員法」なる法律を布いている。これにより、国民の「健康で文化的」な生活を必死で守ろうとしている。

もっとも、この定員法では、恐ろしいことに姥捨て山を立法化したような制度が採られている。つまり、老人を容赦なく“口減らし”の対象にしている。

「定員法」の下では、国民は、一次定年、二次定年という、二重の定年制度に従わなければならない。

一次定年を迎える年齢は60歳。二次定年は75歳とされている。

そのうえで、国は一次定年を迎えた国民に対し、二次定年に達するまでの間―――すなわち74歳までは、これを国家の「定員内」として扱う。

つまりは年金を支給し、医療や食料等の給付対象とする。要は、社会保障の内とする。

ところが、そんな人々が二次定年を迎えると、それらは全てが打ち切られる。75歳以上は、健康かつ文化的な生活が保証されない、国の“定員外”とされるかたちだ。

ちなみに、劇中、街なかでは街路灯を小さくしたような姿のロボットが巡回(おそらく)していて、急病人などを見つけると声をかけ、場合によっては救急車も手配する。だが、二次定年を迎えた者は別だ。ロボットは「あなたの役には立てない」旨を寂しく告げ、見捨てるのみだ。

よって、75歳の誕生日を過ぎた国民にあっては、完全な自助自立を図るか、家族の扶養に頼るか、自助と被扶養の両輪にすがるかしか生きる術がない。それ以外にあっては、すなわち、絶望が待っている。

とはいえ、それでも国は、ほかの国民を飢えさせないためにはそうせざるをえない。何となれば、劇中の日本では少子化も進んでいる。現役世代が支えられる高齢者の数という面でも、すでにそのバランスは限界を超えている。(現状は劇中の数字をさらに超えているが)

一縷の望み―――定年の延長

さて、そんな時代に生きる安彦だが、彼はまだ恵まれている方だ。なぜなら、この老人には頼れる家族がいるのだ。

「お父さんが二次定年を迎えても私たちがなんとかするから」と、優しく声をかけてくれる。

しかしながら、家族が老人を思いやる以上に、老人も家族の将来を想っている。安彦は、毎度の食事を食べたい分だけ食べず、我慢し、残りを保存食に加工することを日ごろの常としている。それが可能な技術が、どうやらこの時代には生まれているようだ。

ただし、そのせいで、彼にあっては空腹が常態化している。足もとがフラつき、散歩の途中で地面に膝を突くようなこともままあるようだ。

さて、そんな安彦のもとに、吹山という男があるウワサ話を持ってくる。彼は安彦の友人で、おそらく同い年だろう。

話とは、二次定年の特別延長申請に関するものだ。吹山曰く、申請書に記す個人番号に添えて(マイナンバーらしいものが劇中予見されている)、指の爪で、ある印を刻んでおくと、それが当局に対し一定の意思を示すサインになるらしい。

意思とは「賄賂を贈る用意がある」ということだ。

なお、この特別延長は、一次定年を60歳で迎えたあと、二次定年に達する前に亡くなった人の枠を埋めるかたちで原則行われる。ちなみに、死因は悲しいことに自殺が多い。

そこで、延長希望者がこれを申請し、抽選に当たれば、その人は75歳以降もいくばくか二次定年到達を猶予される(期間は不明)。

よって、賄賂とは、当然ながらこの抽選に不正に当選させてもらうためのものにほかならない。

とはいえ、吹山が持ち込んでくる話といえば、いつもいい加減なものばかりだ。この件もとても信じられる内容ではない。

それでも、申請当日、区役所に出向いた安彦は、一縷の望みをかけて書類に印をつける。

だが、当選は成らなかった。吹山もまた同様だった。

不意の二次定年繰り上げ

物語はクライマックスを迎える。

爪で「印」を付けたにもかかわらず、抽選に漏れたことに怒り、区役所で暴れる吹山。それを止めようとする安彦。

そこに、不意のテレビ放送が始まる。

内閣総理大臣による臨時の発表だ。ちなみに、総理の名は奈良山という。これはもちろん「楢山節考」(姥捨て山を題材にした小説・映画)から採られている(はずだ)。

内容は、なんと定年引き下げの通告だった。これより、一次定年は56歳に、二次定年は73歳に変更されるという。理由は、さらなる食糧事情の悪化による。

「追って、われわれも皆さんと同じ運命をたどる」旨、悲痛な表情で全国の高齢者に告げる奈良山。

なおかつこの変更に経過措置はなく、この日をもって、すでに74歳の安彦も、おそらく同年齢の吹山も、予定より早い二次定年を迎えることとなった。

そして、物語のラスト。

ついに国の「定員外」たる存在となった安彦と吹山。

公園のベンチにたたずむ両人の元に、ガールフレンドを連れた吹山の孫が現れる。2人の老人は若いカップルと若干のやりとりをしたあと、彼らのために席を譲る。

そのあと、重苦しくも、一方で奇妙にタッチの明るいラストシーンが1ページ・ひとコマをもって展開する。心に残る一枚絵といっていい。

以上で、老人たちの短い物語は終わりを告げる。

「定年退食」の舞台は現在?

さて、この「定年退食」だが、73年当時これを描いた藤子・F・不二雄先生は、劇中の時代をいつ頃と想定していたのだろう。

筆者が思うに、それはまさに現在だ。

根拠は、物語の中で描かれる、ある“風俗”にある。その詳細についてここでは触れないが、その点から窺うに、安彦や吹山はどうも団塊の世代(1947~49年生まれ)か、その前後の人であるような気配がある。

ちなみに、団塊の世代はその全員が今年中(24年)に75歳以上となる。つまりは二次定年だ。実際には後期高齢者と呼ばれることになる。

そのうえで、「定年退食」で描かれた世界と、われわれの現実を比べてみよう。

まず、劇中で語られているような食料不足は、現実の日本では幸いなことに起きていない。街角で人を見守るロボットもおらず、さらには、食べ残した毎日の食事を手軽に保存食に加工できるような機械や技術も、まだほとんど生まれていないはずだ(現状、フードドライヤーがある程度か)。

しかしながら、高齢者を支えるための制度にきしみが生じている点は、物語とかなり近い。

そのため、「定年退食」は、未来を予見した作品―――予言作品、などといわれることがある。なお、高齢社会におけるしわ寄せは、現実においては高齢者ではなく、現役世代や若者こそがより重く背負っているという意見が、世間には間違いなく多いだろう。

ちなみに、73年当時、わが国の総人口に対する高齢者(65歳以上)の割合といえば、まだ7.5%に過ぎなかった。「定年退食」はそうした呑気な(?)時代に描かれている。

よって、日本社会の高齢化がまだ実感を伴うものでなかったこの頃、読者はまさに“SF”“娯楽”として、この作品を面白おかしく読んだにちがいない。

しかしながら、現在となればそうではない。高齢者の割合は人口のほぼ3割に達している。そのため、国のリソースはこれに大きく割かれ続けている。われわれは「定年退食」をとてもではないが面白おかしく読めない。

なにしろ、老いた人間を社会の維持のため口減らしの対象にする「定員法」のような世界は、理論的には容易に成り立ってしまう世界だ。

よって、われわれはそのことについて、考えてはいけない暗い答えとして、実は誰もが心の奥によどませている。

それゆえ、この作品は現在に生きるわれわれの胸にこそ、重く響いて来る。深く突き刺さってくるというのが、筆者の思うところだ。

自己負担3割の拡大と「働き損」の解消

先般、政府が新たな「高齢社会対策大綱」を決定し、これを公表している(9月13日閣議決定)。

この中では、75歳以上における、医療費3割自己負担を課す対象を広げる旨、検討の方向性が示されている。このことは、ほんのわずかながら「定年退食」的だ。

一方で、年金の今後については、「働き方に中立的な年金制度の構築を目指して、更なる被用者保険の適用拡大等に向けた検討を着実に進める」と、書かれている。

こちらは、暗に「在職老齢年金」制度の見直しを指すものといっていい。

すなわち、「高齢者がよく働き、稼ぐと年金が減らされる」―――いわば「働き損」の現状を改め、彼らの経済社会への参加をもっと促そうではないかというものだが、こちらは「定年退食」的ではない。

老人にも、より長く国の「定員」になっていてもらおうということで、世代が近い筆者など、単純に明るさを感じる。

反面、わずかな懸念もないではない。

職場の意思決定において、加齢臭がさらに増し、イノベーションが遠ざかっていくことにつながる危うさも、当然ながら否定しうるものではない。

(文/朝倉継道)

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この記事を書いた人

コミュニティみらい研究所 代表

小樽商業高校卒。国土交通省(旧運輸省)を経て、株式会社リクルート住宅情報事業部(現SUUMO)へ。在社中より執筆活動を開始。独立後、リクルート住宅総合研究所客員研究員など。2017年まで自ら宅建業も経営。戦前築のアパートの住み込み管理人の息子として育った。「賃貸住宅に暮らす人の幸せを増やすことは、国全体の幸福につながる」と信じている。令和改元を期に、憧れの街だった埼玉県川越市に転居。

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