落としたい人に1票? 面白選挙制度を真面目に考えてみる
朝倉 継道
2024/05/08
今の選挙制度は正しいか?
「若者の政治離れが著しい」「選挙に行かない。無関心」
そんな風に言われるようになって、随分と久しい。
なぜ、そう言えるのか?
答えは簡単だ。少なくとも、筆者が若者だった昭和の終わりや平成の初め頃も“われわれ”若者は、大人たちから盛んにそう言われていたからだ。
ひょっとすると、この世間の嘆きは、さらにもっと以前から続いているものなのかもしれない。
そこで、若者の話は措いたうえで、この記事では、まずはこんな疑問を据えてみたい。
そもそも、今の選挙制度は、制度として正しいのか?
ほかに、もっとよいやり方があるのではないか?
今の日本にはない“面白選挙制度”を真面目に考えてみる。
1.当選させたい順位をつける
これは、アメリカなど、いくつかの国で実際に行われているものとして有名だ。(preferential votingなどと言う)
たとえば、そのアメリカの一例。
1人分の当選枠を争う複数の候補者に対し、「1番に当選させたいのはこの人」、「2番はこの人」と、有権者は順位をつけていく。投票用紙にあらかじめ記されている候補者名に添えられた記入欄に、数字を書き込むことで、ランク付けをしていくわけだ。
その結果、投票した人の過半数が「1番」をつけた、信任厚い候補者が現れたとしよう。すると、その人がスムーズに当選者となって、そこで選挙は終了だ。
ところが、そうした候補者が現れなかった場合、集計は次の段階に進む。
ここで、1番をつけてもらった数が最も少ない候補者は落選となるが、この人に1番をつけた投票用紙は無駄にはならない。なぜなら、そこで「2番」とつけられていた候補者に、この1票は譲られるかたちとなるからだ。
そのうえで、このプロセスは、票の過半数を勝ち取る候補者(=当選者)が現れるまで続くことになる。
この方法のよいところ。それは、いわゆる死に票が減ることだ。
自身が1番に推した候補者は当選させられなかったが、2番推しした候補者は当選させられた、などとなると、それなりに手応えは感じられやすい。1票がとことん生かされるという意味で、投票に行きたいと思う人を増やす効果はありそうだ。
なおかつ、たとえば候補者が5人いるなか、得票率が2割ちょっとと少ないのに、得票数がトップであるがためその1人が当選してしまうような、いわばシラけたケースも、こうしたやり方を採れば抑えられることになる。
2.落選させたい人を選べる
海外での実例があるという話は聞いていないが、実現のため運動している人たちがいるとは耳にする。当選させたい候補者だけでなく、落選させたい候補者にも、それを目的とした1票を投じられる制度だ。
たとえば、有権者は、当選させたい人の名前を書く投票用紙と、落選させたい人の名前を書く投票用紙、2枚にそれぞれ記入し、投票する。
あるいは、投票用紙は1枚で、それを普通の投票用紙として使うか、落選させたい人への“反対票”として使うか、用途を選ぶことができる。
ともあれ、かたちはいくつかあると思われるが、集計の方法としては、その候補者を当選させたいとする「賛成」票の数から、その候補者を落選させたいとする「反対」票の数を引くことで、当該候補者の得票数とするやり方が、通常は採られることになるだろう。
すると、たとえば、いわゆる組織票・岩盤支持層といったものを持つ候補者であっても、アンチの数が多ければ、得票数は大きく差し引かれ、当選は危うくなる。
結果、全体の利益を見ず、一部支持団体の権益にばかり血眼になるような候補者が、排除されやすくなることが期待できるだろう。
加えて、反対票による気に入らない候補者への攻撃(?)が可能となれば、刺激的な意味も含めて、投票所に出向く人の数を増やすことにもつながるはずだ。人々の心ばかりは若干荒むかもしれないが。
3.「どの候補者も選びたくありません」も可能とする
候補者のうち「どの人も選びたくありません」との意思表示を可能とするやり方だ。筆者の知るところでは、インドなどで実際に行われている。
そのうえで、この票を白票同様に扱い、有権者の意思としてその数を記録・公表するまでのものとするか、あるいは、有効な1票として集計してしまうか?
面白いのは、当然後者となるだろう。
なぜなら、「どの人も選びたくありません」が、複数ある当選枠の中に堂々名を連ねたり、その選挙が1人の当選者を選ぶ選挙であれば、同票が他の候補者を蹴散らして1位となり、当選者がいなくなったりする可能性もあるからだ。
すると、どうなるか?
最も単純に考えられる方法として、得票の少なかった候補者を足切りしての再選挙があるだろう。また、その際は、「どの人も選びたくありません」票の行使を重ねて認めるか、新たな候補者の“飛び入り”を容認するかなど、さまざま――面白い――制度設計が想像されることになる。
なお、「どの人も選びたくありません」票の実現は、将来、選挙での投票を義務化する類の制度が仮に布かれた場合、ワンセットで行われるのが望ましい。なおかつ、効果も上がるだろう。
4.有権者となる資格を定める
さて、以上とは話を少し変えて、次は、投票のしかたではなく、投票する有権者というものをどう考えるかをテーマにしていこう。
あからさまにいうと、こんな「本音」をもつ人は、実際のところ世のなかに結構いるはずだ。
- 「オレも1票、あんなヤツも1票、同じだけの権利を持つのではやりきれない」
- 「誰にでも無分別に選挙権を与えるから、ろくでもない議員が選ばれるんだ」
- 「18歳になるだけで選挙権がもらえるなんて、冗談じゃない。未来を決める1票を投じる有権者となるための資格が問われて然るべきだ」
いわゆるエリート主義も見え隠れしそうなアブナイ考えとも思えるが、歴史をさかのぼると、これらを結果的に汲んだ制度と言えるものはちゃんとあった。
たとえば、年齢要件が今より厳しいだけでなく、男性のみが投票でき、女性は許されなかった時代や、投票するには一定以上の納税額が求められていた時代など、過去にはわが国にも存在した。
さらには、あまり知られていないが、多額納税者の互選によって選ばれる「多額納税者議員」なるものが実在した時期もある。
以下、筆者の思いつく「有権者資格制度」を並べてみよう。なお、筆者はこれらの提唱者というわけではない。
(1)納税額による有権者資格制度
今、チラリと書いたとおりだ。
「選挙権は、満25歳以上、国税○円以上を納める男子のみに与える」などと定められていた近代の頃に近い姿に立ち返るということだ。
そのうえで、切り分ける場所を少し変え、「住民税非課税世帯においては選挙権を我慢してもらう」などといったやり方が、ここでは模索される場合もあるだろう。
要は、権利(投票)と義務(納税)の交換を徹底させるということになる。
「低所得者に対するとんでもない人権差別だ」との見方が、おそらくほとんどとなる一方、本音ではひそかに賛成する声も少なくないかもしれない。
(2)有権者資格試験制度
有権者となるための国家試験制度を設ける。
社会常識や倫理、初歩的な政治・行政に関する知識といった内容を網羅するこのテストに合格しないと、投票資格が得られない。
すると、試験の難度によっては、これを入学・入社条件のひとつとするところが現れたり、公務員の採用基準にされたり、といったことにもなるだろう。被選挙権を獲得する条件にも、当然なってくるものと思われる。
(3)特定公務への従事経験を有権者資格とする制度
軍歴を経た者にだけ参政権が与えられる未来の世界を描いた有名な小説もあったりするが(ロバート・A・ハインライン「宇宙の戦士」)、納税額による有権者資格制度が過去に実在したことを思えば、お金でなく、時間と行動で権利を勝ち取る考えがあってもおかしくはない。
消防、警察、介護、福祉、防衛などに関わる公の現場や、公衆衛生に関する公的な業務等に一定期間従事することによって、有権者資格が得られる制度があれば、国民個々の経験や知見、意識を高めるうえでも、意味のあることかもしれない。
(4)高齢有権者引退制度
わが国においては、現在、満18歳未満の者に選挙権は与えられない。これは、極論すれば年齢差別だが(かといって0歳児に投票は無理だが)、これが許されるのならば、逆も許されてよいことになる。
たとえば、80歳以上には、有権者たる地位を引退してもらう。
なぜなら、自らの意志を政治・行政に反映させうる期間を彼らはもう十分に過ごしてきたのだ。あとは、後進に任せていただく。
将来の短い者に、将来を決める投票をしてもらっては困るということだ。
少し前に、老人は集団自決したらよいなどというトゲトゲしい発言(メタファーだったのだろう)が話題になったが、選挙権を返上してもらうというソフトな“自決”ならば、世間から総攻撃されることもなく、多少は建設的な議論の土台にできる可能性もある。
5.1人1票は正しいのか?
次に進もう。
われわれは今、選挙の際、1人につき1票だけの投票権を与えられる。だが、これ自体正しいことなのか?
場合によっては、1人がもっと多くの票を投じられる制度があってもいいのではないか?
そんな考えに基づくアイデアをひとつ、以下に挙げてみる。
(1)子育て世帯選挙権優遇制度
筆者は、わが国の少子高齢化・人口減少について、さほど深刻なものと考えていない一人だが、仮に、逆の立場に立つとしたらこんな制度を推したくなる。
子育て世帯の選挙権を優遇する制度だ。
具体的には、たとえば18歳未満の子どもを育てている世帯においては、親には、子どもの人数分の投票権も与えられる。
権利の分配方法は、子育てする親をどれだけ優遇するかによっていくつか考えられるだろう。もっとも強引な方法としては、父親にも、母親にも、いずれにも子どもの人数分だけ、投票用紙を確保させてしまうやり方も考えられる。
すなわち、子どもが2人いる場合、父親は3票、母親も3票持てるわけだ。
すると、候補者にとって子育てする親は見逃せない強力な有権者となる。彼らを重視した政策を本気でアピールし、進めないわけにはいかなくなるわけだ。
いかがだろう?
つまり、この制度にあっては、子どもの選挙権の行使を親が代行するかたちにもなるわけだが、一見ハチャメチャに思えつつも、ある意味、これで国民全員、全年齢にわたって選挙権が付与されるという理想(?)も達成される。
6.有権者連座制
テーマをまた変え、こちらはわれわれ有権者を甘やかさないための制度となる。
「有権者連座制」だ。
たとえば、何かの罪を犯し、任期中に刑が確定した国会議員を出した選挙区については、次の選挙には参加させない。
当該選挙区は、次の次の選挙までは、国会へ代表を送れない選挙区となる。有権者は、その人物に投票しなかった者も含め、おかしな議員を選んだ“連帯責任”を取らされることになるわけだ。
これは、民主主義の考え方の上では恐ろしい懲罰と言えるが、主権は有権者が持つという同主義の原理原則には極めて沿っている。
われわれは普段、国会議員を何かにつけ辛辣に批判するが、彼らはそもそもわれわれが選び出した人物たちなのだという根本的な論理が、われわれ自身に叩き込まれる意味で、この制度は有効な仕組みとなるはずだ。
地方議員や首長の場合どうするかは、各地域に委ねられるかたちの法整備をするのも真面目な意味で面白い。
7.議員をくじ引きで選ぶ
最後の話題となる。
そもそも、選挙などやめてしまうというのはどうなのか?
やたらとお金がかかったり、候補者・政党同士が罵り合ったり、ある一定の集団が血眼で利権を争ったり……。
そのような世界はやめにしては? と、そんな提案になる。
では、代わりにどうするのかというと、答えは「くじ引き」だ。
たとえば、国会議員や地方議員を国民、市民の中から抽選で選んでしまう。
そう聞くと、
「なんてちゃらんぽらんな制度だ!」
と、呆れる人もいるかもしれないが、実は、このくじ引き民主主義、一部の政治学者などが、実現の可能性を真面目に論議しているものだ。
ちなみに、重要な公的使命をもつ人をくじ引きで選ぶ制度としては、先行して裁判員制度がある。当初は心配の声も多かったが、われわれ日本国民は今のところ立派にこの制度を運用している。
もっとも、1人だけを選ぶ首長の選任にあっては、くじ引きは問題が出そうだが、多数を選ぶ議会議員であればおそらくそうではない。
属人的なリスクが分散化、希薄化されることで、裁判員同様、結構スムーズに運用し得るのではないかとの意見については、若い頃役所勤めしていた筆者もさほど不安なく頷けるものだ。
そのうえで、抽選にあたっては、男女同数が選ばれる仕組みと、各世代同じ人数が選ばれる仕組みをあらかじめ講じておけば、まさに理想的な議会構成が可能となる。
よって、「議員になりたい人」、しかも「立候補できる環境が整っている人」という、冷静に考えてみれば社会的に異例な人々だけを選出対象とする現在の議会選挙に比べ、
「なんてまともなんだろう」――!
くじ引き民主主義が行われる未来が仮に訪れるとして、その時代の人々は、われわれがかつての封建社会を振り返って感じるように、そう思ったりするのかもしれない。
ちなみに、われわれが政治家一般に対して、ネガティブな評価や感情を抱く場合、その多くは、彼らの選挙での行動に根差したものとなっている。
すなわち、選挙というものが無ければ、いわゆる世襲議員も、タレント議員も、特定支持団体によるお抱え議員もその意義が失われる。
選挙に関わる汚職も無くなり、票田を維持するため、票に結びつく課題ばかりを議員らが重視することもなくなるわけだ。
「政治とカネ」と揶揄される問題も、その多くは選挙があるがため存在するにほかならず、そうした意味から、くじ引きで議員を選ぶ制度というのは、選挙が生む弊害を高次に消し去るメタなパワーをもった制度ともなるわけだ。
いかがだろう?
以上のように、決してちゃらんぽらんな夢や空想ではないため、くじ引き民主主義は、繰り返すが一部では真面目に議論されている。
なお、そうした中においては、実際にこれを行うにあたっては、選挙で選ばれる議会と「くじ引き選出議会」とのハイブリッドのかたちでスタートするのがよいのではとの意見もあるそうだが、賢明と言えるだろう。
もちろん、くじ引き民主主義を支えるにあたっては、“召集令状”をいつもらうことになるか知れない国民の方も、ある程度の割合、賢明・聡明であることが求められる。
だが、その条件ならば、近年のわが国の若い世代を見る限り、そろそろ整って来ているのではないか。
(文/朝倉継道)
この記事を書いた人
コミュニティみらい研究所 代表
小樽商業高校卒。国土交通省(旧運輸省)を経て、株式会社リクルート住宅情報事業部(現SUUMO)へ。在社中より執筆活動を開始。独立後、リクルート住宅総合研究所客員研究員など。2017年まで自ら宅建業も経営。戦前築のアパートの住み込み管理人の息子として育った。「賃貸住宅に暮らす人の幸せを増やすことは、国全体の幸福につながる」と信じている。令和改元を期に、憧れの街だった埼玉県川越市に転居。