斎藤利三家――明智光秀の重臣にして春日局の父は、本能寺の変の原因になった?
菊地浩之
2021/02/08
「太平記英勇伝五十四:齋藤内蔵助利三」(落合芳幾作)Utagawa Yoshiiku, Public domain, via Wikimedia Commons
美濃の名家・斎藤家
NHK大河ドラマ『麒麟がくる』は新型コロナの影響で異例の越年放送になり、最終回を迎えた。
そんな『麒麟がくる』の終盤の第38話で稲葉一鉄(演:村田雄浩)の家臣・斎藤利三(としみつ。演:須賀貴匡)が、光秀のもとに庇護を求めてきた(実際は稻葉家家臣ではなく、与力だと思われる)。
美濃の斎藤といえば、斎藤道三(演:本木雅弘)が有名だが、道三はもともと美濃・斎藤家の生まれではない。
道三は京都朝廷を警固する武士・松波氏の子として生まれ、日蓮宗の僧となり、美濃で還俗して油売りに転身、土岐家家臣・長井長弘に仕えて西村勘九郎と名乗った。
長弘を殺害して長井家を継ぎ、長井新九郎と改称。さらに、美濃守護代・斎藤家を継いで斎藤利政、出家して道三と称した。ただし、近年では、松波氏の子が一代で斎藤道三になったのではなく、父子二代(油屋から長井家相続までは道三の父)で美濃を制覇したという説が有力である。
応仁・文明の乱で、土岐家は京都で多くの戦功を上げたが、それは守護代・斎藤妙椿(みょうちん)が美濃を確実に押さえていたから成し得たことであった。しかし、斎藤家の実力が次第に土岐家を圧倒。土岐家内部、斎藤家内部でそれぞれ内紛が起き、その中で擡頭していったのが斎藤道三だったわけだ。
信長、家康にも評価された戦巧者の名将
話がそれたが、斎藤利三は美濃守護代・斎藤家の出身といわれ、道三の娘と結婚。後妻に稲葉一鉄の姪を迎えている。美濃でも相当な名家の出身だったということだ。
のみならず、かなりの戦巧者の名将だったらしい。徳川家康の父の代から前半生までを著した『松平記』に、信長が「武辺場数」これある衆を書き出した部将の名が列記されているが、斎藤利三も明智家中で選ばれた五人のうちに選ばれている。
智光秀の重臣といえば、斎藤利三、藤田伝五(演:徳重聡)、明智左馬助(演:間宮祥太朗)、明智次右衛門(じえもん)、溝尾少兵衛(みぞお・しょうべえ)の五人で、利三はその筆頭だったようだ。
日本史の三大ミステリーは、①邪馬台国はどこにあったか、②本能寺の変の原因は何か、③坂本龍馬暗殺の黒幕は誰かだという。
最近の研究で、本能寺の変の原因として急浮上してきた「四国説」に、斎藤利三が深く関わっている。
では、「四国説」とは何か。簡単にまとめてみると、以下のようになろう。
土佐(高知県)の戦国大名・長曽我部元親(ちょうそかべ・もとちか)は、かねてから信長と誼(よしみ)を通じ、四国制覇目前だった。ところが、天正10(1582)年になると、信長は急に方針を変えて、阿波(徳島県)の三好家と結んで讃岐(香川県)侵攻を企図。最終的には阿波、および伊予(愛媛県)も掌中に収める心づもりだったらしい。
当然、長曽我部は反撥。それまで、光秀が長曽我部との取次を任されていたので、織田家中での立場が危うくなったという。さらに、斎藤利三としても、実兄・石谷頼辰(いしがい・よりたつ)を通じて長曽我部家と深い姻戚関係にあったので、織田・長曽我部の間を修復する必要に駆られた。光秀、利三は頼辰も巻き込んで長曽我部家の説得にかかったが、なかなか同意を得られなかった。
天正10年5月下旬になって長曽我部家は信長の意に屈したが、光秀、利三はそれを知らぬまま、6月2日を迎え、本能寺の変が起こったというのである。
「四国説」が擡頭した背景には、傍証となる古文書の存在がある。
岡山県林原美術館が所蔵する石谷文書の中に、以上の経緯を詳らかにする古文書があり、それが発見されたことで「四国説」が俄然有力な説に浮上したのだ。
しかし、信長の四国政策転換は、信長の考えが変わったからであって、光秀の失態によるものではない(どうやら、信長はその時々の最適解を判断して行動する御仁で、過去の政策との継続性はあまり考慮しなかったようだ)。
「光秀、すまねぇな」とは思っていても、「光秀、けしからん」とは思っていなかっただろう。また、光秀は娘の嫁ぎ先(摂津の荒木家)が離反した時でも信長に従った男である。家臣(利三)の親戚(長曽我部)が窮地に陥ったくらいで、信長を討とうと考えるだろうか。非常に疑問である。
父の無念を晴らした娘「春日局」
山崎の合戦で光秀が秀吉に敗れると、利三は近江湖畔・堅田の明智旧臣を頼って逃げ延びた。ところが、利三はその明智旧臣に裏切られて捕縛され、一緒に落ち延びた二人の息子は斬られたという。結局、利三は6月18日に秀吉の命により京都六条河原で処刑された。
利三の三男・斎藤利宗(としむね)は生き延びて細川忠興(演:望月歩)、稲葉一鉄に預けられた後、加藤清正に仕えて朝鮮出兵で戦功を上げ、5000石を与えられた。清政の死後、浪人となったが、徳川家光に召し抱えられて5000石を賜り、子孫は旗本に列した。
利宗の登用には、末妹・春日局(かすがのつぼね)の人力があったと思われる。
春日局(麟祥院所蔵の肖像画)投稿者が作成, Public domain, via Wikimedia Commons
春日局の母は、利三の後妻で、稲葉一鉄の姪にあたる。稲葉家はかねてから近隣の林家との小競り合いが続いていたので、林家の子・正成を一鉄の孫娘と娶せ、婿養子に迎えることで和睦したのだが、その娘が死去してしまった。そこで、一鉄は春日局を稲葉家の養女に迎え、正成の後妻としたのだ。
どういう経緯かは諸説あるのだが、春日局は正成と離縁し、慶長9(1604)年に26歳で家光の乳母となった(福田千鶴氏は著書『春日局』で、春日局が家光の実母だとしている)。家光は秀忠の正室・お江(ごう)の方に疎まれ、春日局がその成育に尽力。家光が将軍に就くと、大奥を整備するなど、絶大な影響力を及ぼすに至った。また、春日局の実子・稲葉正勝は老中に登用され、子孫は大名として存続。利三は無念の死を遂げたが、その子孫は栄達を遂げたのである。
この記事を書いた人
1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。