島津家①――「九州最強の軍団」秀吉・家康に敗れながらも幕末の雄藩になった理由
菊地浩之
2020/11/12
家祖・島津忠久(伝島津忠久画像)/尚古集成館蔵, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由
島津家は頼朝の子孫?
島津家は家祖・島津忠久を源頼朝のご落胤と自称しているが、一般には惟宗広言(これむね ひろとき)の子といわれている。母・丹後局(たんごのつぼね)は比企尼(ひきのあま、源頼朝の乳母)の娘である。
惟宗氏は帰化人・秦(はた)氏の末裔で、いわゆる惟党(これとう)を構成する一族。
惟党は古代九州に蟠踞し、織田信長が明智光秀に惟任(これとう)姓、丹羽長秀に惟住(これずみ)姓を与えたことでも知られる。対馬の宗(そう)氏は平家の落人の子孫を名乗っているが、実は惟宗の末裔で、惟宗を略して姓にしたらしい。
島津忠久は近衛家の荘園・島津荘の地頭となって島津姓を名乗り、薩摩、大隅国(鹿児島県)の守護、のちに日向国(宮崎県)の守護に任じられ、少弍(しょうに)家・大友家と九州を三分する勢力を誇った。
母・丹後局は忠久を生んだ後、鎌倉御家人の安達盛長(もりなが)に再縁して安達景盛(かげもり)を産んでいる。景盛の曾孫・安達宗景は、景盛を頼朝のご落胤と主張して源氏を名乗り、父とともに「霜月騒動」で討たれている。
どうやら、島津家の関係者が「異父弟・景盛が頼朝のご落胤なら、忠久もそうに違いない」と気付いたらしい。島津家は室町時代半ばから頼朝の子孫と称している。
九州制圧の頓挫
戦国時代の当主・島津貴久には四男があり、いずれも勇将として名高い。
長男・義久、次男・義弘、三男・歳久、四男・家久(義弘の子・家久とは同名異人)である。
貴久は子どもたちの力を借りて大隅・日向を平定し、子の島津義久の代になると、九州中央部から北部まで勢力を拡げるに至った。
鎌倉時代以来、九州は島津と少弍・大友が三分していたが、少弍家は支流の龍造寺(りゅうぞうじ)氏に取って代わられた。島津義久は沖田畷(おきたなわで)の合戦で龍造寺隆信(たかのぶ)を討ち取り、九州北部の諸将を降伏させた。これにより、島津家が勢いに乗じて大友家を倒し、九州全土を制覇する可能性が現実味を帯びてきた。
当時、天下統一を推し進めていた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)は、こうした島津家の勢力拡大に危惧の念を抱き、島津家に対して大友家との和睦を勧めた。
しかし、秀吉が提示した九州分割案が島津家にとって不利だったため、島津家は勧告を拒否。これに怒った秀吉は総勢25万の大軍で九州を進軍。さすがの島津も秀吉に降伏し、薩摩、大隅、日向国の領有のみを認められた。
関ヶ原の敗戦、島津の退き口
関ヶ原の合戦でも島津家は苦汁を飲まされた。
島津義弘は徳川家康から伏見城へ入城するよう指示されるが、徳川家臣・鳥居元忠(とりい もとただ)に籠城参加を断られ、逆に攻め手に加わってしまう(家康の連絡ミスだったらしい)。成り行き上、島津勢は毛利・石田方(いわゆる西軍)に加担することになったが、関ヶ原の合戦では積極的に戦闘には加わらなかった。
いよいよ西軍の敗退が濃厚となり、左右の味方陣営が崩れ出すと、島津勢は自陣に迫ってくる者を敵味方問わずに攻撃した。やがて島津勢が孤立し、敵からの集中攻撃を受けるようになり、義弘はやむを得ず、死中に活路を求めて敵の中央・家康の本陣近くを突っ切って、敵の真正面に向かって「敗走」した。いわゆる「島津の退き口」である。千数百名いた島津勢は敗走の過程で数十名にまで減ってしまったという(京都の島津製作所の島津家は、敗走する島津家を支援して島津姓を賜ったという説がある)。
這々の躰(ほうほうのてい)で薩摩に逃げ落ちた島津勢・薩摩武士の無念さは、後々まで大きな影響を与えた。特に子弟教育では「チェスト関ヶ原」(=関ヶ原の雪辱を忘れるな)が合い言葉になったという。
関ヶ原の合戦後、島津家は恭順の意志を示すため、島津義久、義弘兄弟が揃って隠居し、義弘の三男・島津忠恒が義久の婿養子となって家督を継いだ。のちに徳川家康から偏諱を賜り、初代薩摩藩主となる島津家久である。
家康は西軍に加担した諸将をことごとく改易、減封した。島津家も征伐の対象となり、一時は九州への出兵を検討したという。これに対し、島津家久や島津家重臣は、徳川家臣や家康方の諸将を通じて粘り強く赦免を懇願した。
実際のところ、徳川家の勢力が西国にまだ充分及んでいない状況での出兵は現実的でなかったから、家康は出兵を回避し、島津家の本領安堵を認めた。
「蘭癖大名」島津重豪と天保財政改革
8代藩主・島津重豪(しげひで)はその名が示す通り、豪放磊落で進取気鋭に富み、積極的で型破りの大名だった。しかも、娘婿の徳川家斉(いえなり)が11代将軍に就任したので、島津家の声望は拡大した。
学問への造詣が深く、藩校・造士館、武芸鍛錬場・演武館、天文台・明持館を創設。また、蘭学への傾斜が深く、「蘭癖(らんぺき、西洋かぶれ)大名」の典型といわれた。重豪は自らオランダ語、中国語を習得し、歴代オランダ商館長と書信でやり取りを行った。ドイツ人医官のシーボルトとも親密で、次男・奥平昌高(おくだいら まさたか)、曾孫・島津斉彬(なりあきら)を連れて面談している。
しかし、重豪の積極的な性格は、藩財政の窮乏に拍車を掛けた。
そのため、重豪の子・島津斉宣(なりのぶ)は財政改革を進めたのだが、その内容は造士館の改革や重豪が設置した役職の廃止など、重豪の政治を否定するものだった。重豪は激怒して斉宣を隠居させ、改革担当者の13名を切腹、25名を遠島(えんとう=島流し)に処し、115名におよぶ大粛正を行った。
斉宣の隠居にともない、その子・島津斉興(なりおき)がわずか19歳で10代藩主となり、祖父・重豪が藩政を後見した。重豪は側用人・調所笑左衛門広郷(ずしょ しょうざえもん ひろさと)に財政改革を命じた。いわゆる薩摩藩の「天保財政改革」である。
当時、薩摩藩には500万両にも及ぶ借財があったが、調所は大坂、江戸の商人に対して、年2万両ずつ250年賦(ねんぷ)で返すと宣言。事実上、借金を踏み倒した。その一方、砂糖を藩の専売制とし、奄美大島諸島では砂糖の原料・甘蔗(かんしょ)を強制的に栽培させた。それは「苛政」ともいうべき強制労働で、大島では永く島津家を怨み、維新後になっても鹿児島の企業は島津姓の社員を大島へ派遣しなかったという。
また、調所は琉球・中国との密貿易を大々的に行い、幕府が禁じていた貨幣鋳造にも手を染めるなど、犯罪に近い事業を行っていた。改革は一応の成功を収めたが、調所広郷は江戸藩邸で突然死去した。密貿易の嫌疑を受けたことによる服毒自殺といわれている。
こうした犠牲を払って、薩摩藩は藩政改革を成功させ、幕末には雄藩と呼ばれるようになったのである。
この記事を書いた人
1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。