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足利家――源氏の中で名門として生き残り、幕府を開くことができた理由(2/2ページ)

菊地浩之菊地浩之

2020/09/17

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源家三代が滅んだあとの征夷大将軍

言語学的にいうと、三河と尾張が東西方言の境界らしい。これは鎌倉幕府の実質的な勢力圏が三河までだったことに起因するという説がある。最西端の三河は、鎌倉幕府の有力者・足利家が任され、その庶子が封ぜられた。だから、足利一族には三河の地名を苗字とするものが多いのである。
なお、三河の一門を束ねる家柄だったのが、吉良上野介義央(きら こうずけのすけ よしなか)で有名な吉良家である。吉良家は足利家の中でも家格が高く、戦国時代には斯波家と「どっちが上か」で一悶着起こしたほどだった。

かくして足利家は北条家から代々正室を迎えて御家安泰を図っていたのだが、正室に男子が生まれないこともある。その時、側室・上杉氏の子を嫡子として立てた。

意外に知られていないのだが、源家三代が滅んだ後も鎌倉幕府は征夷大将軍が存在した。

まず、頼朝の姉の孫・藤原頼経が四代目の征夷大将軍に就任(摂家将軍)。その子・藤原頼嗣(よりつぐ)が五代目を継いだが、頼経・頼嗣父子が謀叛に関与したとして北条家によって解任されてしまう。

北条家は摂関家出身の将軍に懲りて、今度は後嵯峨(ごさが)上皇の子・宗尊(むねたか)親王を六代目の征夷大将軍に就任させた(宮将軍)。親王が鎌倉に下向してくる際に、付き随ってきたのが上杉重房(しげふさ)で、公家の勧修寺(かじゅうじ)家の支流だと伝えられる。

足利尊氏は武家棟梁の地である鎌倉に未練を残しつつ、京都に幕府を開かざるを得なかったので、四男の足利基氏(もとうじ)を鎌倉公方として鎌倉に置いた。従兄弟の上杉憲顕(のりあき)は執事として仕え、初代の関東管領といわれている。以後、関東管領は上杉家の世襲するところとなり、上杉憲政(のりまさ)に至って自力再生を断念し、越後守護代の子・長尾景虎(かげとら。のちの上杉謙信)を養子に迎えることで、名家存続を図ったのである。

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この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

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