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「宗教と酒」の切っても切れない深い関係

正木 晃正木 晃

2021/12/09

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Last Supper by Theophanes the Cretan/Public domain, via Wikimedia Commons

実はブッダは飲酒をきつく戒めていた

仏教では、「五戒」と称し、最も基本的な戒律のなかに、酒を飲んではならないという「不飲酒戒」が設定されていた。ところが、中世の日本仏教界では、飲酒が横行していた事実を、「厳しい教義と思われがちな宗教にとっての「性」その実態は?」の記事で述べた。

それどころか、京都における酒税の徴収を、統治のための組織がはなはだ脆弱だった室町幕府に代わって、比叡山延暦寺が担当していた事実も、「最澄1200年大遠忌、織田信長の焼き討ちから450年――比叡山の知られざる伝説」の記事で述べた。


飲酒を禁じたというブッダ/Public domain, via Wikimedia Commons

では、なぜ、酒を飲んではならないのか。その理由を、最古の仏典とみなされている『スッタニパータ』第二章におさめられている「ダンミカ経」は、ブッダ自身の言葉として、こう説明している。

また飲酒を行ってはならぬ。
この不飲酒の教えを喜ぶ在家者は、他人をして飲ませてはならぬ。他人が酒を飲むのを容認してはならぬ。
これはついに人を狂酔せしめるものであると知って。
けがし諸々の愚者は酔のために悪事を行い、
また他の人をして怠惰ならしめ、悪事をなさせる。
この禍いの起こるもとを回避せよ。
それは愚人の愛好するところであるが、しかし人を狂酔せしめ迷わせるものである。
(中村元訳『ブッダのことば―スッタニパータ』岩波文庫)

要するに、酒に酔って、悪いことをするから、酒を飲むなというわけで、至って常識的な見解である。もっとも、こう言うと、酒を飲んでも、酔わなければいいのではないか、という声が聞こえてきそうだが、酔っていないか、酔っているかの判別は、酒を飲んでいる当人にはできないと言い返されると、その反論は難しい。

ブッダが禁じた理由、それでも切れない酒との関係

ちなみに、出家する前のブッダは酒を飲んでいたという。そして、酒に酔った者が醜態をさらす姿を目の当たりにしていたらしい。

仏伝として最も有名なアシュヴァゴーシャ(馬鳴 紀元後1世紀)作の『ブッダ・チャリタ(ブッダの生涯)』に、こんな記述がある。

ここに登場する「女」は、あまりに真面目一方のブッダを、楽しませてやって欲しいと父王から依頼された遊女たちである。なお、ブッダは彼女たちから性愛の高度なテクニックを学んでもいる。

また、ある女は髪整わず、振り乱し、装飾品をつけた絹衣の裾も臀よりずれ、首飾りの糸も切れて散乱し、あたかも象にこわされた彫像の女のような態なして横になっていた。

また、別の女たちは、平素、つつましく、容姿の美徳をそなえていたが、いまや自制心もきかぬままに、羞恥心もなく、横になって高いびき、腕を投げ出し、取り乱して仰向けになっていた。
他の女たちは装飾品、花環がそのあるべき位置よりはずれ、衣の結び目はほどけて、意識もなく、眼は不動の白眼を剝いたまま、あたかも死んでしまったように横たわり、およそ見られた態ではなかった。

また、別の女は口をぽかんとあけ、大の字に身体をひろげ、涎を垂らし、陰部を露わにし、あたかも酔いつぶれたかのように横たわっていた。彼女は美しからず、むしろその容姿を醜くしているだけであった。
(原実訳『ブッダ・チャリタ』中央公論社)

このように、ブッダは飲酒を厳禁したが、インドの宗教界では、酒は神々と交わる聖なる場を提供する役割を果たす伝統もあった。インド最古の聖典である『リグ・ヴェーダ』では、「神酒(ソーマ)」のように、祭祀にあたって神々にそなえられる酒が神格化されている。ただし、「神酒(ソーマ)」は、酒類(アルコール飲料)ではなく、幻覚性の植物から抽出された飲料という説もある。

さらに、仏教でも、最後発の後期密教では、ガナチャクラといって、生身の男と女の修行者たちが、所定の場所にペアを組み、天体の運行に合わせて、何日間も、パートナーを交換しながら、性的ヨーガ(性行為を必須とする瞑想法)を中心とする特別な儀礼も実践されていた。その際、飲酒がおこなわれた可能性がある。現に、「酒に満たされた髑髏杯」とか、「酒を飲み肉を喰らうのは、ガナチャクラにほかならない」という記述が残されている。

儀礼と酒は切っても切れない関係にあるキリスト教

イエスとその弟子たちは、大酒飲みの大食漢だったと伝えられる。『新約聖書』「マタイによる福音書」第11章に、以下の記述があるからだ。

人の子(イエス)が来て、飲み食いすると、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。

この記述によると、イエスは飲食に関してけっして禁欲的ではなかったと思われる。

そして、3~4世紀に、初期教会における典礼が整備されるにおよび、『旧約聖書』の朗読・イエスの事績の朗読とならび、聖餐式が必須となった。聖餐式では、イエスの体と血がパンと赤ワインによって象徴される。この儀式は、イエスが、いわゆる最後の晩餐で述べたことに由来する。

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
(「マルコによる福音書」第14章)


整体儀礼について制定されたとされる「最後の晩餐」/Public domain, via Wikimedia Commons

この逸話は、「マルコ」以外にも、『新約聖書』の「マタイ」・「ルカ」、およびパウロによる「コリントの信徒への手紙」に記されていて、きわめて重視されていたことがわかる。

聖餐式の意義や用いられるパンは、宗派によって異なる。

たとえば、カトリック教会では、パンとワインがイエスの体と血に変わること(聖体変化)とそれを信徒が分け合うこと(聖体拝領)が主題とされる。信徒は、イエスの体を象徴するので「御体(おんからだ)」と呼ばれるホスチアだけを拝領するのが普通で、ワインは拝領する場合もあれば拝領しない場合もある。ホスチアとは、酵母を使わない、つまり無発酵のウエハースのようなパンで、あらかじめ聖別されている。

いずれにせよ、赤ワインなしでは、最も重要な儀式が実践できないことにかわりはない。そういえば、こんな逸話もある。明治維新をへて、それまで禁じられていたキリスト教が解禁されたとき、耶蘇(やそ)は生き血を飲むという噂がひろまった。もちろん、聖餐式で信徒が赤ワインを飲んでいるところを見た者が誤解したのだが、よほど驚いたのであろう。

一方、プロテスタントでは、パンやワインに対するこだわりが少ない。昨今では、ワインではなく、グレープジュースを用いる教会もあるくらいだ。

ちなみに、伝統あるヨーロッパ産のワインに修道院由来の例があることは、以上の歴史を知れば、よく分かる。日本でも、岐阜県にある多治見修道院ではワインを醸造している。

話が縦橫にすべって恐縮だが、カトリック教会の神父にアルコール依存症(中毒症)がかなり多く見られると報道されている。オーストリアのウィーン大司教区が実施した調査によれば、「神父たちの肥満化が広がっている。同時に、アルコール中毒傾向がみられる聖職者も増えてきた。4人に1人の聖職者はアルコール中毒症状で医者の相談を受けている」という。その背景には、神父という仕事はストレスがたまりやすく、しかも、そのストレスを発散する機会がなかなかない。そこで、手近にある酒で鬱憤晴らしをするというメカニズムがあると指摘されている。

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この記事を書いた人

宗教学者

1953年、神奈川県生まれ。筑波大学大学院博士課程修了。専門は宗教学(日本・チベット密教)。特に修行における心身変容や図像表現を研究。主著に『お坊さんのための「仏教入門」』『あなたの知らない「仏教」入門』『現代日本語訳 法華経』『現代日本語訳 日蓮の立正安国論』『再興! 日本仏教』『カラーリング・マンダラ』『現代日本語訳空海の秘蔵宝鑰』(いずれも春秋社)、『密教』(講談社)、『マンダラとは何か』(NHK出版)など多数。

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