光陰矢のごとし――現代人の時間を奪ってゆくものとは何か
遠山 高史
2021/04/23
イメージ/©showcake・123RF
時間を短く感じる――それは年のせいか
今年の桜は、とりわけ早く散った、と思う。
だが、毎年、桜が散るとそう思っている。矢が飛び去るように一日が終わり、そして気が付くともう次の桜が散るのを惜しんでいる自分に気が付き、愕然(がくぜん)とする。
光陰矢の如しという言葉の出典は定かではないが、平安後期の文献にはすでに載っているそうだ。1000年も前から、人類皆思うことは同じなようで、感慨深い。
年のせいで、時の経過が早く感じるのだと思っていたが、最近、どうもそれだけではないように思う。知らぬ間に、時間を奪っていく何かがあるのではないかと思えてしかたがない。
ドイツの童話作家、ミヒャエル・エンデ氏の著書『モモ』は、人間と時間のありようを、痛烈に、かつ、的確に描写している。
『モモ』は、1973年に出版された。形の上では童話とされているが、今回の原稿を書くにあたり、蔵書を読み返してみたところ、むしろ大人の読み物で、現代人こそ読むべき一冊であると思う。
作・絵/ミヒャエル・エンデ 訳/大島 かおり 岩波少年文庫 刊 880円(税込)
詳しい内容は割愛するが、劇中に「時間泥棒」という組織が登場する。時間泥棒は、あの手この手で「時間を節約すること」を人々に勧める。しかし、節約した当の本人には、時間は残らず、片端から時間泥棒に奪われていく。そうして、人々は心のゆとりを失っていくのだが、なぜなのかは認識できぬまま、さらに節約をしようと躍起になる姿が描かれている。
この時間泥棒という存在は誠に示唆的である。一見、便利で効率的なように見えて、その実、我々の時間を奪っている物が今の社会に無数にあるからだ。
本当にゆとりのある生活とは何か
一昔前、最も速い通信手段は固定電話とFAXしかなかった。それも、外出してしまえば、所定の場所に戻ってくるまでは、情報を手に入れることはできない。言い換えれば、戻るまでは「時間」があったのだ。それが、今や、張り巡らされたネットワークによって、地球の裏側にいても瞬時に通信が可能になった。おかげで、旅行先でも、おかまいなしに仕事のメールを確認できる。
テレワークもそうだ。通勤時間がなくなった分、効率的かと思われているが、仕事の区切りをつけ難く、だらだらと仕事をしてしまう、もしくは、課せられ、結果的に拘束時間が長くなったように感じるという人も多いようだ。
娯楽はどうだろうか。タブレットのおかげで、映画館に行く必要がなくなった。契約さえしていれば、時間も場所も選ばずに、好きなだけ、コンテンツを楽しめる。だが、莫大な量のコンテンツを消化するために、最近では動画を倍速で見る人がいると聞いた。ここまでくると、娯楽と言っていいのか疑わしい。
こういう事例を見るに、便利になったはずの現代人にゆとりが生まれたようにはとうてい思えない。人間一人あたりの情報量が、爆発的に増えたのだ。インターネットが普及したあたりが節目であろう。ほんの20年、30年前と比較しても、その差は圧倒的である。
ご自身のスマートフォンを見て欲しい。実にさまざまな通知が、ひっきりなしに画面に表示されているはずである。新作の映画の情報、明日の天気、電車の遅れ、友人からの誘い、そしてもちろん、大切な取引先からのアポイントなど……。
すぐに情報を確認できて便利? 効率的? 本当にそうだろうか?
情報は、そのままにしておけない。対処しなければならないのだ。時間あたりの情報量が多ければ多いほど、人は対処に追いまくられる。
新作のアニメが出た。
すぐに見なければ!
雨が降る?
傘を用意しなければ!
次の打ち合わせが決まった。
プレゼンの準備をしなければ!
昔も今も、1時間は1時間だ。だが、詰め込まれる情報が増えれば、その分対処に追われることになる。昔、1時間を要した仕事が、5分でできるようになった。だが、その空いた時間には、次々に新しい情報が詰め込まれ、5分で済んだ仕事の後に、何か別の仕事がやってくる。1時間で一つできれば良かった事柄が、今では12倍をこなさなければならない。
昨今、ワークライフバランスとか、働き方改革という言葉を目にするが、本当の意味でのゆとりある生活というものは、幻想に過ぎないのではないかとさえ思う。
とはいえ、せめて、心豊かな瞬間を生活に組み込む努力はしたほうがいい。人生は短いが、たまに立ち止まって周りを見回す程度の時間は誰にでもある。
スマートフォンを家に忘れたとしても、命をとられるわけではない。普段はバスで行く通勤路を歩いてみるのもいい。無駄に思えることも、実は無駄ではないことはたくさんある。そういう無駄が、精神には良かったりするものだ。
「時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜん別のなにかをケチケチしているということには、だれひとり気が付いていないようでした」
『モモ』のなかの一文である。モモのようにとはいかないまでも、なるべくケチケチせずに、世を渡りたいものである。
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この記事を書いた人
精神科医
1946年、新潟県生まれ。千葉大学医学部卒業。精神医療の現場に立ち会う医師の経験をもと雑誌などで執筆活動を行っている。著書に『素朴に生きる人が残る』(大和書房)、『医者がすすめる不養生』(新潮社)などがある。