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まちと住まいの空間 第22回 1世紀ターム変貌する丸の内――高層化と美観論争(1/3ページ)

岡本哲志岡本哲志

2020/04/07

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武家地であった丸の内

東京都心部で超高層ビルが立地する場所を見ていくと、単独の超高層ビルはほぼ大名屋敷の跡地だといって間違いない。しかしながら、森ビルが試みた都市再開発の手法のように、台地の大名屋敷地と低地の下級武家地、あるいは町人地とを組み合わせるケースも見られるようになる。前回登場したアークヒルズ、六本木ヒルズがそれにあたる。それでも、種地は大名上屋敷で、アークヒルズが美濃大垣藩戸田家、六本木ヒルズが長門府中藩毛利家であった。

平成6(1994)年に、東京タワーの展望台から東京都心部の光景をパノラマで見た(写真1)。超高層ビルは、まだまばらに点在しているに過ぎなかった。超高層ビルが建つ規模として、1万㎡の土地が必要となる。その点、大名の上屋敷が整然と配置されていた丸の内は、超高層ビルを林立させる土地環境を備えていた。だが、その丸の内に100mを越える超高層ビルが出現する時期は遅く、2002年に竣工した丸ビルを待たねばならなかった。

写真1、東京タワーの展望台から見た東京都心部(1994年)

バブルの時代(1985〜1991年)には、大手建設会社がこぞって300mを越える超高層ビルの構想を東京で描いてみせた。三菱地所も丸の内において、300mを越える超高層ビルを約60棟建てる「マンハッタン計画」を1988年に発表している。この構想はバブル崩壊により、具体化することはなかった。

バブル崩壊後に訪れた日本の経済危機は、東京都心部の超高層ビル化による経済的な活性化に糸口を見つける他なく、丸の内も超高層化の時代を担うことになる。1986年に、皇居側から丸の内をパノラマで撮影した(写真2)。百尺のスカイラインを越えて建つ建物の数は東京海上ビルディング本館(以下「東京海上ビル」、99.7m、1974年竣工)などわずかであった。2019年に、30数年前に撮影した同じアングルで丸の内を撮影すると、凄まじい勢いで超高層ビル化された現状がそこにあった(写真3)。

写真2、丸の内のパノラマ(1986年)

写真3、丸の内のパノラマ(2019年)

次ページ ▶︎ | 丸の内に超高層ビルが建てられる前段階 

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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