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じつは御三家ではなかった水戸徳川家

「水戸黄門」が幕末、明治維新にも影響を与えた!?

菊地浩之菊地浩之

2020/01/29

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光圀が「水戸黄門」として人気のあった理由

水戸藩35万石の藩主・水戸徳川家は徳川家康の11男・徳川頼房(よりふさ)を藩祖とする「御三家」の一つである。

しかし、水戸徳川家が「御三家」として認知されたのは、8代将軍・吉宗の頃だったいう。それまで、「御三家」といえば、将軍家、尾張家、紀伊家のことを指し、水戸家はその下に位置付けられていたというのだ。ところが、思わぬことで、水戸家は「御三家」と公認されることとなる。

尾張徳川家7代・徳川宗春(むねはる)はしばしば幕府の禁令を犯すことがあったので、8代将軍・吉宗は老中を通じて「将軍家を輔弼する御三家でありながら云々」と苦言を呈した。これに対し、宗春は「家康公が将軍家、尾張家、紀伊家を御三家として、三家は同格と決めたはず」と反論した。吉宗は最終的に宗春を引退させるのだが、その過程で「御三家」とは尾張家、紀伊家、水戸家のことで、将軍家はその上に立つ者と宣言したのだ。尾張家が反撥しなければ、水戸家は御三家にならなかったかも知れない。尾張家さまさまである。

水戸徳川家といえば、2代・徳川光圀(みつくに)の「水戸黄門漫遊記(みとこうもんまんゆうき)」が有名だが、実際は江戸と水戸を往復したほか、日光参詣と鎌倉に旅したくらいで、諸国を漫遊したとはいえない。光圀の庶民の人気が高かった理由は、悪性で知られた「生類の憐れみ令」を猛然と批判したからだ。

「生類の憐れみ令」を発した5代将軍・綱吉は、もともと将軍家の分家筋から養子に入ってきたため、家格が上だった御三家(および水戸家)には遠慮がちであった。その上、光圀は綱吉の将軍就任を支援したといわれ、綱吉に臆することなく意見し、犬を罰したり、狩猟を盛んに行ったりした。その言動が庶民の溜飲を下げ、光圀の評価は上がり、やがて「水戸黄門漫遊記」という伝説に昇華していく基盤となったのだ。

光圀の実際の業績では『大日本史』の編纂が有名であるが、その過程で学者を各地に差し向け、史書を探求させた。その代表が先の安積覚兵衛(あさか かくべえ=格さん)、佐々介三郎(さっさ すけさぶろう=助さん)である。

ここから光圀自身が助さん・格さんを率いて全国各地を漫遊し、悪代官や癒着する政商を懲らしめるという説話が生まれたらしい。もっとも、「水戸黄門漫遊記」が世に広まったのは幕末の頃で、水戸徳川家出身の徳川慶喜のイメージアップ戦略として宣伝されたといわれている。

本当は庶民の人気が高かった斉昭

その徳川慶喜の父、九代藩主・徳川斉昭(なりあき)は、大河ドラマではとんでもない頑固爺(がんこじじい)として描かれているが、庶民には大人気の名君だった。

藩主に就任すると、藩政改革を断行。人事を刷新し、優秀な人材を郡奉行に投じて農村復興を試みた。また、海防に並々ならぬ関心を持ち、那珂湊(なかみなと)に砲台を築き、大砲を鋳造して設置し、大規模な軍事教練を毎年のように行った。藩校を設立し、精神修養と余暇のための施設として「水戸偕楽園(かいらくえん)」を造営し、領民にも開放した。

しかし、斉昭の極端な改革は既存勢力の反感を買うことになる。軍事教練は幕府から嫌疑を受ける。大砲鋳造のために寺院の梵鐘を没収したりして僧侶に恨まれる。さらに幕政に口を出して倹約を勧奨したため、大奥にも嫌われる。こうした反感の積み重ねが幕府を動かし、遂に1844年に斉昭は謹慎処分を受けてしまう。

ただ、斉昭はこんなことでくたばるようなタマではなかった。謹慎が緩くなると、斉昭は老中・阿部正弘に海防策を呈し、いずれ交易を求めて外国使節が江戸近海にやってくるだろうが、その折りは御三家や雄藩大名から「内々に」意見を求めた方がよいと進言した。

斉昭の危惧はやがて現実となる。1853年に黒船が来航したのだ。すると、斉昭はかねて造っていた大砲74門を幕府に献上し、水戸藩領から江戸に次々と運び入れた。黒船におびえていた江戸庶民は斉昭に拍手喝采を送り、大人気を博した。幕府も斉昭を大いに見直し、幕府の海防参与に任じた。また、阿部正弘は過去に斉昭に進言された通り、諸藩大名等に対して「大々的に」意見を求めた。これが諸藩の幕政介入の契機となった。

さらに、1857年に米国総領事・ハリスが通商条約の締結を迫ると、攘夷派の斉昭が大反対を唱える。当時の老中・堀田正睦(まさちか)は斉昭を押さえ込むには、朝廷から勅許を得るべきと判断した。しかし、それを知った斉昭は先手を打って、義兄の関白を介して孝明天皇に攘夷論を吹き込み、勅許を出さぬことに成功した。幕府の政策を否定したことで朝廷の存在が一躍脚光を浴び、京都が政争の舞台となっていく。

斉昭の権謀術数は結果として幕府の権威をおとしめる結果となったのだ。

光圀が種をまいた思想が幕末・維新に影響を与える

そして、井伊直弼が大老に就任すると、勅許を得ずに日米修好通商条約に調印。反対派の大名を蟄居・引退させ、志士を処刑して徹底的な弾圧を行った。いわゆる「安政の大獄」である。その一環で、斉昭も水戸藩邸に幽閉された。ここら辺から水戸藩内は藩士が激論を重ね、収拾がつかないような大混乱に陥っていく。

1859年に水戸藩士が登城中の井伊直弼を暗殺(桜田門外の変)。さらに、1864年に藩内の過激派が筑波山で挙兵する(天狗党の乱)。乱は幕府軍によって鎮圧され、約350人が死罪となり、約130人が遠島に処せられた。そして、乱が集結した後も関係者の処罰が続いた。

水戸藩は『大日本史』編纂の過程で、独自に尊皇思想を理論化して「水戸学」に結実させていき、攘夷論と尊王論を結びつけた「尊王攘夷論」を唱えた。また、藩の学者・会沢正志斎(せいしさい)が国防の重要性を説いた『新論』は、刊行されるとたちまちベストセラーとなり、志士たちの間で宝典のようにもてはやされた。このように水戸藩は尊皇攘夷の理論的支柱として諸方面から期待されたが、内訌によって幕末で活躍する場を失った。幕末維新で水戸藩出身の志士というのをあまり聞かないのはそのせいである。

しかし、意外なところで、水戸家は御三家から一つ抜きんでることになる。光圀が始めた『大日本史』の編纂はその後も延々と続き、1906年に一応の完成を見た。明治維新後に御三家は侯爵に列したが、その功で水戸徳川家は唯一公爵に昇爵することができたのだ。一説には、宮内大臣・田中光顕(みつあき)が、大の水戸びいきで昇爵運動したらしい。田中は土佐の脱藩浪人で、ながらく長州に潜伏した維新の志士だった。水戸家を公爵に押し上げたのは、水戸藩の志士ではなく「水戸学」だったのだ。

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この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

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