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たくさんあった「日本の暦」

全国でバラバラだった日本のお正月

正木 晃正木 晃

2019/12/24

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イメージ/123RF

暦に新暦と旧暦があるのは、ご存じだろう。日本の場合、旧暦は天保暦、つまり江戸時代も終わりに近い天保15年1月1日(1844年2月18日)に改暦され、明治5年12月2日(1872年12月31日)まで約29年間使用された暦(太陰太陽暦)を指している。新暦は、明治6年(1873年)1月1日に改暦されたグレゴリオ暦(太陽暦/西暦)である。

細かいことをいうと、旧暦(天保暦)の明治5年12月3日が、新暦の明治6年(1873年)1月1日になった。

旧暦と新暦とでは1か月くらいずれがある。新暦のほうが1か月くらい季節が早い。当然ながら、正月も1か月くらい違う。

現代の日本では新暦の正月が通例で、「旧正月」と称して、旧暦の正月を祝う地方は少数派に転落してしまった。しかし、旧正月が少数派というのはむしろ日本だけのようだ。

中国大陸・香港・台湾・韓国・ベトナム・モンゴルなどでは、1年中で最も重要な祝祭日の1つとされ、新暦の正月よりずっと盛大に祝う。

また、私たち日本人のほとんどは、旧暦だろうが新暦だろうが、1月1日が1年の初めと思い込んでいるが、世界中を見渡すとそうとは限らない。タイでは今でこそ、グレゴリオ暦の1月1日が1年の初めだが、1888年からグレゴリオ暦が導入された1940年までは、グレゴリオ暦でいうと4月1日が一年の初めだった。ちなみに、「ソンクラーン」と呼ばれるタイの旧暦では、グレゴリオ暦の4月13日から15日が正月とされている。

イスラム教が採用しているヒジュラ暦はもっぱら月の運行にもとづく純粋太陰暦なので、新年は年ごとに異なっている。2019年の新年は9月1日である。

誰が1月1日を1年の初めにしたのか?

そもそも1年の初めを1月にする、言い換えれば正月にすると常に決まっていたわけではない。

古代中国を例にあげると、最古の王朝とされる夏の暦では、グレゴリオ暦が導入される前の日本と同じように、旧暦の1月が正月だった。

ところが、夏を滅ぼした殷の暦では真冬の12月が正月だった。殷を滅ぼした周の暦では11月が正月だった。中国を初めて統一した秦の暦では初冬の11月が正月だった。秦を滅ぼした前漢の武帝の時代に発行された太初暦になって、夏の暦にもどり、いわゆる旧暦の1月が正月になった。

しかも、かつての中国文明圏では、中華帝国が発行した暦を採用することは、中華帝国の冊封体制下に入る、すなわち属国になることを意味していた。だから、どこかの国が中華帝国に朝貢すると、暦を下賜され、この暦を使えと命じられたのである。

この種のことは、世の東西を問わない。この理屈でいくと、現代の日本は、ローマ教皇のグレゴリウス13世が1582年10月15日から発行させたグレゴリオ暦を使っているから、キリスト教の支配下にあることになってしまうが、いかがなものだろうか。

では、暦と支配被支配の関係が結びつけられたのは、なぜか。そこには、暦を作成する者は、時間を支配するという思想がかかわっていた。さらに、暦は太陽と月をはじめ、天体の運行にもとづいて作成され、その天体の運行と人間の運命の間には密接な関係があるという思想もかかわっていた。

要するに、支配者は暦を作成することで、余人に先立って、天体の運行からいちはやく未来を予知してうまく対処できるのであり、逆にいえば、そういう能力をもてないようでは、支配者の資格がないとみなされていたのである。

たくさんあった「日本の暦」

日本は、唐をのぞけば、歴代の中華帝国と正式な外交関係をもたなかったために、朝鮮半島などとは違って、中国で作成された暦の使用を強制されることはなかった。とはいっても、自前で暦を作成するだけの力はなかったから、唐時代に作成された宣明暦(せんみようれき)を輸入してきて、朝廷の陰陽寮(おんみようりよう)から全国へ頒布していた。
この状態は、江戸時代の中期の貞享(じようきよう)2年1月1日(1685年2月4日)に、江戸幕府の初代天文方をつとめたしぶかわはるみ渋川春海 (1639-1715)によって作成された貞享暦(じようきようれき)に改暦されるまで、なんと823年も続いた。

もっとも、こんなに長く続くと、大きな誤差が生じてしまう。おまけに京都の朝廷の力が衰えてしまったので、頒布も統制もできなくなってしまった。そこで、室町時代の後期になると、各地で宣明暦をもとに三嶋暦、会津暦、京都の経師暦(きようじごよみ)、南都暦(なんとごよみ)、丹生暦(にうごよみ)、伊勢暦など、独自の仮名書き暦(仮名暦=かなごよみ)が作成された。作成したのは暦の知識をもっていた地方の陰陽師などで、暦師と呼ばれていた。

ただし、その能力はかなり疑問で、計算違いもけっこうあった事実が指摘されている。したがって、暦ごとに日付が異なる場合もあらわれ、正月が全国一律の日付で祝われない年もあったようだ。

 

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この記事を書いた人

宗教学者

1953年、神奈川県生まれ。筑波大学大学院博士課程修了。専門は宗教学(日本・チベット密教)。特に修行における心身変容や図像表現を研究。主著に『お坊さんのための「仏教入門」』『あなたの知らない「仏教」入門』『現代日本語訳 法華経』『現代日本語訳 日蓮の立正安国論』『再興! 日本仏教』『カラーリング・マンダラ』『現代日本語訳空海の秘蔵宝鑰』(いずれも春秋社)、『密教』(講談社)、『マンダラとは何か』(NHK出版)など多数。

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