旧朝香宮邸から読み取る白金が高級住宅地になった理由
岡本哲志
2019/12/04
高級住宅地となる条件とは何か
NHKの人気番組ブラタモリは、視聴者を引きつけるお題目が用意される。
2019年6月22日に放送された『ブラタモリ』白金編では、「なぜ白金はシロガネーゼになったのか」だった。30代の子育て世代の主婦がファッショナブルなイタリア高級ブランドに身を包み、外車に乗り、血統書付子犬を白金の街で散歩させる。白金の高級住宅地を歩いていると、確かに、いかにも高そうな子犬を散歩させている人たちとよくすれ違う。
番組では「なぜ白金はシロガネーゼになったのか」を切り口にしているが、ベースにあるテーマは、高級感を漂わせる街自体の履歴、「白金がなぜ高級住宅地になったのか」である。ただ、多くの人たちは、白金の街のなりたちを知っているようで、意外と知らないのではないだろうか。皆さんは、そのことをご存じだろうか?
ブラタモリ・白金編では、「高級住宅地」が成立する条件をあげながら、一つひとつの課題をクリアーしながら、「白金がなぜ高級住宅地になったのか」を読み解くように番組が進行する。
高級住宅地になった条件は「豪邸」「緑」「高台」「治安」の4つ。これに加えて番組の最後にもう一つ加わるのだが、まずはこの4つの条件で進行していった。
私たちがよく知る高級住宅地としてイメージされる街をあげると、田園調布、成城学園がまず思い浮かぶだろうか。これらの街は、近代以降に雑木林や原野を計画的に開発整備され、高級住宅地となったものだ。それとは別に、明治期以降大規模な開発が行なわれることなく、大名屋敷の跡地が宅地化され、後に高級住宅地のイメージをつくりあけたケースがある。これこそが江戸を引き受けた東京ならでは、といえる高級住宅地である。
その一つが白金といえる。このようなエリアが高級住宅地に至には、はじめにあげた4つとブラス1の条件が重ならないと成立しない。そこでまずは「豪邸」と「緑」に絞って話を進めていこう。
危機を経て残る「豪邸」と「緑」
写真1、水が湧き出ている八芳園の池 写真2、旧服部邸の正面玄関と木々に覆われた屋敷
明治期以降の「豪邸」は、宮家、実業家が江戸時代主に大名屋敷だった広大な土地を再整備することで贅を尽くした邸宅地とする。大名屋敷跡をベースとしているから、半端な敷地規模ではない。そのような土地に、庭園と屋敷がつくり込まれた。
大正から昭和初期にかけては、明治期に未利用地だった東京周縁の旧大名下屋敷がターゲットになった。その理由は、東京の人口が急増し、関東大震災で荒れ放題だった大名屋敷跡の土地が着目されたことによる。それが白金であった。
例えば、白金にある現在の八芳園のベースとなる日立製作所の創始者で知られる久原房之助の自邸(1915年竣工)は、旧薩摩鹿児島藩島津家抱屋敷跡である。江戸時代初期、ここは大久保彦左衛門の下屋敷だった。その後農地に戻ってしまい、田園の光景が長く続いた。このあたりの低地は湧水が豊富に出ており、生活の場にするには使いづらい土地だった。ただ、ふんだんに供給される水をポジティブに捉えれば、水の豊富さを受け入れた八芳園の庭園となる。池の底からは今もこんこんと水が湧き出ている(写真1)。人それぞれの好みで、庭園と屋敷をどのように配したいかで場所が決まる。
水が豊富な白金だが、台地の上は水との格闘がない。出羽米沢藩上杉家下屋敷跡を自邸にした服部時計店(現・ワコー)の創始者・服部金太郎の屋敷(1933年竣工)は、江戸時代の敷地規模に近い土地に建つ豪邸である(写真2)。こうした豪邸だけでなく、学校も密度高く白金エリアに立地する。特に高級感を醸し出すミッションスクールは、石見浜田藩松平家抱屋敷跡に立地する聖心女子学院、摂津三田藩九鬼家下屋敷、信濃松本藩松平家下屋敷などを合わせた土地に立地する明治学院大学が白金のステータス感を高める。
図1、東京都庭園美術館(旧朝香宮邸)とその周辺
宮家の朝香宮鳩彦親王の自邸(1933年竣工)は、讃岐高松藩松平家下屋敷跡の一部があてられた。この下屋敷は5万坪をゆうに越える敷地規模であり、「豪邸」と「緑」というかたちでこの屋敷は現在東京都庭園美術館と国立自然教育園に引き継がれた(図1)。
「豪邸」としては東京都庭園美術館が、建物と庭園がほぼ当時の朝香宮邸時代のまま保存されており、使われていた家具も残る。
「緑」は、東京ドーム4.2個分もの広さを誇る国立自然教育園に残された。ほぼ手つかずの武蔵野の自然、江戸時代の讃岐高松藩松平家下屋敷時代に讃岐から取り寄せた植物が顔を覗かせる。ブラタモリ・白金編では、一級の文化財や自然が単に残って来たのではないことを強調する。首都高速道路の建設をはじめ、幾つかの危機を乗り越え、現在の姿が維持されてきたからだ。
東京都庭園美術館の見どころと豪邸を襲った危機
写真3、東京都庭園美術館(旧朝香宮邸)の正面ファサード
東京都庭園美術館での案内役は、学芸員の板谷敏彦さんだった。板谷さんは江戸東京博物館の準備段階で関係した学芸員の方で、ここでばったりと会った。江戸東京博物館の立ち上げ準備は30年以上も前のこと。庭園美術館で会うとは想像もしていなかった。
下見で訪れた時、庭園美術館を熟知した彼との会話は面白かった。30年以上の隔たりはともかく、わかること、わからないことを精査して答えてくれたことはうれしかった。ここにはもう何度も訪れているが、新鮮な気持ちでの新たな発見があった。板谷さんの案内を参考に、東京都庭園美術館をブラ歩きすることにしよう(写真3)。
写真4、玄関前に置かれた唐獅子
建物の外観、内観、そして家具と装飾はほぼ全てをアールデコの様式でまとめている。明治期から大正期に見られた和洋折衷の建物ではない。ただ、驚いたことに玄関に入る前にいきなり唐獅子が2体両側に置かれている(写真4)。
タモリさんもすかさずリアクション。アールデコをこよなく愛した鳩彦親王だけに出鼻を挫かれる。旧朝香宮邸はアールデコ一色ではない。小食堂には床の間らしき設えがされているし、妃殿下寝室には和風の建具が設けられてもいる。旧朝香宮邸には所々に和風のテーストも埋め込まれている。
写真5、ガラスの玄関ドアと石のモザイク床
旧朝香宮邸の正面玄関に入ると、目の前にルネ・ラリックの立体的なガラスの玄関ドアがある。その意匠は誰しも目を引く(写真5)。板谷さん曰く、中央の二枚のガラスは割れてしまい、オリジナルではないとのこと。オリジナルは両サイドの2枚だけ。少しくすんで注目されないが、よく見ると両サイドの方がやはりデザイン性が高い。一つひとつの細部をじっくり見ていかなければ、この建物の奥深さに触れることができない。
玄関ドアのガラス意匠に見とれていると、足元を見て下さいと板谷さん。タイルにしては輝きを失われていない。聞くと、すべて自然石がはめ込まれているとのこと。美しいモザイク模様を描きだすために、計り知れない労力と金がつぎ込まれていると知る。すでに玄関で本物を使う贅の限りに圧倒される。見所満載の旧朝香宮邸だけに、ロケで収録した画像をどう選択して絞り込むか。番組のスタッフは相当苦労したと思われる。
収録後、各シーンが番組放送まで生き残る最後の決め手は、タモリさんのリアクションの良さと、番組のキーワードである「存続の危機」をうまく伝えられる映像だったのではないかと思われる。
写真6、3階に設けられたウィンターガーデン
タモリさんの食いつきの良さは、大食堂の天井に塗られた漆喰の巧みさであった。ここで自宅でも漆喰を一部使っている話が出る。
タモリさんのリアクションがあまりなかった普段非公開の「ウィンターガーデン」(写真6)、白磁の噴水塔が置かれた「次室」の壁にちりばめられたプラチナ(白金)などは、スナップ写真として番組内で紹介されただけだった。番組で紹介しきれないという贅沢な選別は、東京都庭園美術館が魅力満載の建物だったからこそだ。
一方、危機を対する豪邸のポテンシャルを高めたは、やはり2階にある書斎であろうか。旧朝香宮邸の書斎でのトークがスタッフから出された重要なミッションであった。そこで聞いた話は、戦後GHQから出された「皇族の特権を廃止し、十四家の資産に課税」される危機についてだった。
宮家である朝香宮の財産税は全財産の79%だった。そうした危機に登場した救世主が首相と外務大臣を兼務していた吉田茂だった。吉田茂総理大臣は外務大臣の公邸として使うことで、旧朝香宮邸はGHQに接収されることを逃れた。
ブラタモリでは放送されなかった旧朝香宮邸のもう一つの危機
写真7、庭園から見る首都高速道路
実は、もう一つ危機として、旧朝香宮邸の庭園から首都高速道路を確認するシーンが撮影されていた。こちらは、放送されていない。庭園の一部を削ってつくられた首都高速道路は、木に覆われて見えづらい。そのような映像ではインパクトがなかったことが放送までに至らなかった(写真7)。
しかも、タモリさんのリアクションは芳しくなかった。むしろ、中途半端に終わっている道路と、歩道が途中で消えてしまっているシーンのほうがテレビを見ている人たちには印象に残る映像だったし、タモリさんのリアクションも大変よかった。同じ内容の危機のシーンを2つも入れる必要がないと判断したのだろう。あえなく、庭園でトークした映像はカットされた。
番組ではまったく取り上げられる気配もなかった板谷敏彦さんの話に、私は大変ショックを受けたこともあった。
東京都庭園美術館(1983年一般公開)の価値を評価するものとして、建物、庭園はさることながら、建物内の家具、調度品の素晴らしさがある。その家具が東京都に引き渡される時、建物内の家具・調度品一切を引き取らない条件だったという。当時、東京都が美術館として運営する上で、家具・調度品が邪魔だったと想像される。それは、「庭園美術館」の名称からも感じられる。日本庭園と展示する美術品を飾る器(建物)があればよかったようだ。
その後、家具・調度品の価値に気付き、買い戻している。買い戻しを地道に行なってきた結果、現在の庭園美術館の評価に活きている。建物と当時使われていた家具があってこそ、文化財としての価値を高める。それを実証した先例が東京都庭園美術館であった。現段階ですべて買い戻したわけではないと、板谷さんはいう。これに関しては、旧朝香宮邸の危機を回避する途上にあるといえよう。
次回は白金が高級住宅地になった条件の「高台」と「治安」を取り上げていく
この記事を書いた人
岡本哲志都市建築研究所 主宰
岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。