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「家」の研究――真田家

幕末で残った子孫は実は伊達政宗の子孫

菊地浩之菊地浩之

2019/09/30

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2016年NHK大河ドラマ『真田丸』の主人公・真田信繁(一般には幸村。ドラマでは堺雅人)の兄、真田信之(ドラマでは大泉洋)は江戸幕府の大名となり、子孫は明治維新まで永らえた。しかし、その道のりはそんなに簡単なものじゃなかった。

『真田丸』では信之に2人の息子がいたのだが、実際は3人で、それぞれが大名となった。

信之は生前、長男・信吉(のぶよし)に沼田3万石、次男・信政(のぶまさ)に信濃のうちに1万7000石を分け与えていた。次男が正妻・小松姫(ドラマでは吉田羊)の子なのだが、この所領配分を見る限りは長男に家督を譲る気マンマンに見える。

実は奥方も、長男の嫁さんは幕府の有力者の娘、次男の方は――まぁまぁかな?――くらいの差があった。当時の縁談は当人の意思ではなく、親の意向で決まるので、信之は長男の方に期待していたらしい。

ところが、長男・信吉は1634年に早死にし、その長男(つまり信之の孫)の熊之助も翌1635年にわずか7歳で死去してしまう。

信之は長男・信吉の遺領3万石を、次男・信政に2万5000石、熊之助の弟・信利(のぶとし)に5000石へと再配分した。なお、信政の旧領1万7000石は、信之の3男・信重(のぶしげ)に譲渡された。

その信重も1648年に死去。子どもがいなかったので、通常は無嗣廃絶といって、幕府に収められるのだが、信之の旧功(昔の功績)という名目で、1万7000石が真田家(=信之)に還付された。

信之は長生きだった。結局1658年まで生きながらえた。享年、なんと93! だいたい昔の人の年齢は現代の7掛けといわれるので、現代の年齢に換算すると133歳くらいに相当する(なんか、ペットの年齢計算みたいで恐縮だが)。

あまりに長生きしすぎて、長男も孫も先に死んでしまった。そこで、さすがの信之も91歳で、次男・信政に家督を譲った。

ところが、信政の子どもたちは問題が多かった。長男・信就(のぶなり)は将軍家の怒りを買ったため、家督を継ぐことができず、分家を余儀なくされ、次男・又八郎が三男を殺害して、自殺する有様。四男、五男は早世(若死に)し、末男の幸道(ゆきみち)が家督を継いだ。

しかも、分家した信就の孫・信清(のぶきよ)、および信利の曾孫・政之丞(まさのじょう)がともに1742年に不行状で改易され、昌幸の子孫で分家した家系は途絶え、本家(信政の子孫)のみになってしまう。

分家がなくなって困るのは、本家が改易された時に真田家が途絶えてしまうこと、または本家に男子が生まれなかった時に他家から婿養子をもらわなければならないことだ。

不幸なことにその危惧が当たってしまう。6代目・幸弘(ゆきひろ)の男子が早世し、1785年にやむなく井伊直幸(なおひで)の九男・幸専(ゆきたか)を婿養子にもらうことになったのだ。幸弘は恩田木工(おんだ もく)を登用して藩政改革を行った名君として知られているが、跡取り息子のことはどうにもならなかったらしい。

井伊家と真田家は直接姻戚関係がなく、『真田丸』の次の大河ドラマが『おんな城主(井伊)直虎』くらいの共通点しかないが、それはまだ先の話。幸道夫人が宇和島藩伊達家の出身で、初代・伊達秀宗(ひでむね、政宗の庶長子)夫人が井伊家出身だったからかな? ――それくらいしか思い当たる点がない。

ところが、せっかく迎えた婿養子の幸専にも男子が恵まれなかった。そこで、今度は白河藩主である松平定信の次男・幸貫(ゆきつら)を婿養子に迎えた。松平定信とは、アノ教科書にも出てくる「寛政の改革」の、松平定信である。その定信の子だけあって、幸貫は外様大名でありながら老中に登用され、藩政では佐久間象山(さくま しょうざん)を登用するなど名君として知られた。

しかし、幸貫と正妻の間には男子が生まれず、真田家の血脈はここで途絶えることとなった。幸貫の孫・幸教(ゆきのり)もなかなか男子に恵まれず、宇和島藩・伊達宗城(むねなり)の長男・幸民(ゆきもと)を養子に迎えた。

伊達宗城は「幕末の四賢侯」の一人、全国でも有数の名君として知られたが、その有能ぶりがアダとなって大老・井伊直弼(なおすけ)に隠居を強いられてしまう。宗城はもともと養子で、前藩主の子が跡を継いだため、宗城の子どもたちは宇和島藩主となる可能性を摘まれてしまう。そこで、幸民は長男なのに真田家へ養子に出されてしまったわけだ。

一方、真田家はもう血脈を継ぐ者がいないし(厳密にいえば、女系を辿るといるのだが)、その頃、各藩も血脈よりも優秀さを養子に求めていたので、宗城の子であれば! ということになったのだろう。

と言うわけで、雑誌の企画で時々呼ばれる真田家の子孫は、実は伊達政宗の子孫なのである。話をはしょったが、伊達宗城は養子とはいえ、宇和島藩5代藩主の子が旗本・山口家の婿養子となり、その孫に当たるので、政宗の男系子孫であることは間違いない。

ちなみに、ある雑誌で徳川将軍家と真田家の子孫対談の記事を読んだことがあった。しかし、この対談は将軍家18代目・会津松平容保(かたもり)の曾孫なので、川将軍家と真田家という企画だったが、実際は幕末名君(松平容保と伊達宗城)子孫対談だったことになる。

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この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

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