本家と分家、そして自然災害――その関係からかたちづけられた町の姿
岡本哲志
2019/07/01
雄勝半島における本家と分家に関して
図1、雄勝十五浜の位置図
宮城県・雄勝半島は、西から小渕山、明神山、石峰山、小富士山と、稜線を描きながら山並みを形成する(図1)。海上からは、見る場所によって独立した山であったり、稜線の一部として目立たない存在にもなる。漁師たちはその変化の激しい地形から、乗っている船の位置を正確に把握した。
写真1、切り開き本家の一つ、阿部家の古民家
半島沿いの小さな入江奥にある集落は、背後の山を古くから信仰の対象としてきた。小富士山を信仰する集落は、大須浜、熊沢浜、羽坂浜、桑浜、立浜。浜の歴史は古く、いずれの集落も主な生業は漁業である。板底一枚下は地獄といわれ、死と背中合わせで漁をする人たちは、船での信頼関係が重要視された。安定した子孫の継続のために、「契約講」のかたちで厳格な本家と分家の関係を築き上げた。そのおかげで、今日でも集落がどのようなプロセスで今日の空間に至ったのかを詳細に復元できる。
「3.11」の地震津波(2011年3月11日)では、港近くの4分の1ほどの建物が津波にさらわれた。熊沢浜で4軒あるといわれる切り開きのうち、1軒だけが津波に飲み込まれずに残る(写真1)。
写真2、熊沢浜の法印神楽
雄勝十五浜で行われる伝統芸能・雄勝法印神楽の祭に江戸後期以降多くの浜が神輿を導入したが、熊沢浜は今も法印神楽が行われるだけのプリミティブな祭である(写真2)。法印神楽の舞台は、切り開きとされる藤井家惣家の庭だったが、家が津波で流されてしまう。2011年の巨大地震津波後は、1軒だけ無事だった阿部家惣家で法印神楽が行われるようになる。
惣本家とその居住場所
写真3、山側から見た熊沢の集落
熊沢浜はV字の細長い谷戸状の地形である。北西斜面地に集落が主に形成してきた(写真3)。水の確保、海からの津波の脅威、日々の生活環境としての日照、もちろん漁をするために海との関係の利便性が集落をかたちづくる条件として浮かびあがる。当然、本家と分家とでは立地する環境が異なる。限られた居住立地の場所をどのように融通し、集落を形成し、発展してきたのか。昭和24(1949)年、竹内利美の調査・研究をまとめた『竹内利美著作集2 漁業と村落』(名著出版、1991年)には、熊沢浜における本家と分家(別家)の調査結果が載せられている。この研究と、私たちが平成23(2011)年夏から平成27(2015)年夏にかけてヒアリング調査した内容を重ねると、興味深い成果が見えてくる。
最初の拠り所とした昭和24年当時の調査では、全戸数40戸(平成22年時点で42戸)の家のうち、惣本家は阿部姓が2家、藤井姓が1家、菅原姓が1家あり、熊沢浜の全戸いずれもが惣本家に行きあたるとする。2家ある阿部姓の惣本家の配置は、内陸側にある惣本家が「カミノエ(K-A系列)」、海側にある惣本家が「オエノエ(K-B系列)」の屋号で呼ばれてきた。藤井姓の惣本家は「オッキエ(K-C系列)」という屋号である。この3家が熊沢浜では中心的な存在であり、菅原姓の惣本家(屋号:スガサマ(K-D系列))は傍流(ぼうりゅう)的な立場にあった。熊沢浜の村社である五十鈴神社は宮守が藤井家惣本家である。最初に浜を切り開いた最有力者であった。
ヒアリング調査では、本家(旧家)として新たに2家の名前があがった。「カミ」の屋号を持つ阿部家惣本家の裏にある「ウシロ」の屋号を持つ阿部家、「ニイヤ」の屋号を持つ阿部家が本家筋にあたるという。ただ、すべての分家が惣本家にいきあたるとする60年以上前の調査と、この度のヒアリングで得られた本家の軒数の違いがあった。ヒアリングした方たちからは、2つの旧家がどこの惣本家に属するかは言い伝えられてきていないとの話である。
図2、熊沢浜の本家と分家の関係
明治に入って最初に編成された全国的戸籍の壬申(じんしん)戸籍によると、明治5 (1872年壬申) 年時点では熊沢浜全戸が10 戸あり、その内訳は藤井姓が4戸、阿部姓が5戸、菅原姓が1戸と記されている。本家の数を引いた分家は、藤井家が3戸、阿部姓が旧家の2家を仮に惣本家の分家とした時、1家を加え合わせて3戸となる。菅原家に分家が見られないことから、分家は計6戸となる。惣本家、あるいは本家筋にあたる家は、集落を貫く沢の西北側斜面地下に集住する(図2)。
写真4、五十鈴神社と津波で流された本家の敷地(海側が藤井家惣本家)
地形形状からは、海に近い、少し高い場所に本家が集住した。2011年に起きた3.11の地震津浪では、本家といわれる家が津波で壊され、五十鈴神社の宮守である藤井家惣本家も家が流された(写真4)。ただ、本家は自然環境に対してリスキーな場所を好んで選択していたわけではない。400年以上も永々と家を守り続ける立地環境に本家の家はあった。3.11では、長い間の自然との兼ね合いで成立していた立地の環境を遥かに越える出来事といえる。
本家から分家する流れ
図3、本家と分家の関係(藤井系列)
ヒアリング調査から、藤井家惣本家はこれまで熊沢浜に9軒の分家を出していることが確認できた。一方の阿部家惣本家の2家から出た分家だが、内陸側にある阿部家惣本家、屋号「カミノエ(K-A系列)」が2軒、海側にある阿部惣本家、屋号「オエノエ(K-B系列)」が6軒の分家を出していた。惣本家の3軒に関する分家先の特徴は、2つの沢の上流が居住場所となっていることだ。藤井家惣本家の分家の立地先は集落の北側を流れる沢に沿った上流に集中する(図3)。
図4、本家と分家の関係(阿部系列)
阿部姓の惣本家2家は、阿部家惣本家の屋号「カミノエ(K-A系列)」からの分家が集落内を抜ける沢の下流、阿部惣本家の屋号「オエノエ(K-B系列)」からの分家が集落内を抜ける沢の上流に住み分けるように分布した(図4)。ちなみに、阿部家(K-B系列)が沢の東南側の斜面地に分家することになるが、ここにも井戸が掘られており、水に恵まれた場所であった。また、熊沢において傍流的存在の菅原家惣本家である屋号「スガサマ(K-D系列)」の分家は、阿部惣本家である屋号「オエノエ(K-B系列)」の分家から、さらに北西斜面を上がった、生活する上で環境条件の悪いエリアを居住地とした。分家先が好立地かどうかで、浜での立場の違いがある程度理解できる。
屋号が「ウシロ」の阿部家(K-E系列)は、「ニイヤ」の屋号阿部家(K-F系列)が本家であるが、現在分家を出す本家として扱われてきた。これらの屋敷の位置を確認すると、阿部家(K-E系列)は阿部家惣本家「カミノエ(K-A系列)」の背後の土地に屋敷があり、分家もK-A系列の西隣に隣接して屋敷を構える。一方阿部家(K-F系列)は集落を貫く沢を隔て、阿部惣本家「オエノエ(K-B系列)」の向かいに屋敷がある。現在、この分家は昭和8(1933)年の地震津浪で山側に移っているが、以前はもう少し海に近い場所に屋敷があったという。K-F系列の分家は、K-B系列の分家に近く、集落を貫く沢沿いに立地する。K-B系列の分家と比べると居住環境はあまり良くない。
旧家6軒のエリアは、五十鈴神社を背にして、集落を貫く沢の下流にコンパクトに集落を構成する。それぞれの屋敷の位置関係を改めて検証すると、屋号が「ウシロ」の阿部家(K-E系列)は阿部家惣本家、屋号「カミノエ(K-A系列)」の屋敷裏にある土地を分けて分家した可能性がある。「ニイヤ」の阿部家(K-F系列)は、漁を主導的に行う上で、K-C系列の藤井家惣本家、K-B系列の阿部惣本家とともに、海に近い絶好の場所を占めてきた。K-B系列の阿部惣本家が沢の南側に早期に分家を出したと考えられる。また、K-F系列の阿部家は、分家の立地環境が劣るが、K-B系列の阿部惣本家の分家と似た分家の出し方をしていることから、土地所有上の関係があったのかもしれない。
この記事を書いた人
岡本哲志都市建築研究所 主宰
岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。