総理大臣候補にもなった徳川将軍家16代目
菊地浩之
2019/05/16
15代将軍・徳川慶喜(1837~1913)が大政奉還し、江戸時代が終わった後、徳川将軍家(現在は「徳川宗家」と呼ばれる)はどうなったのか。
慶喜は朝敵となったために謹慎し、御三卿の一つである田安徳川家の7代目・徳川亀之助に家督を譲った。亀之助は徳川家達(いえさと/1863~1940年)と改名したが、数え年6歳の少年にすぎなかった。こうした幼少の子に家督を相続させたのは「徳川家の家督は子どもが継いだので、明治新政府に抵抗できませんよ」という言外のアプローチだったのだろう。
徳川家は戊辰戦争(1868-69年)に敗れて江戸城を追われ、静岡藩70万石の一大名に格下げとなり、廃藩置県により大名でもなくなった。ただし、1884年に華族制度が制定されると、家達はそのトップである公爵に列し、貴族院議員に選ばれ、1903年からに33年までおよそ30年間、貴族院議長を務めた。
家達は気が大きく、明るく円満な性格で、人望が厚かった。しかも、公爵・貴族院議長で地位も高い。しばしば総理大臣候補に擬せられ、1914年にシーメンス事件で山本権兵衛内閣が総辞職すると、家達に次期首相として組閣するように内命が下った。
しかし、反幕勢力がまだ羽振りを利かせていた時期だったこともあり、家達は政争に巻き込まれることを危惧して固辞したという。大久保利通の次男・牧野伸顕(のぶあき)ら政府高官は、明治の末頃まで徳川家の巻き返しがあるものと本気で心配していたらしい。彼らを刺激しないようにという保身術だった。
家達の長男・徳川家正(1884~1963)は東京帝国大学法科大学政治科(東京大学法学部)へ進み、成績優秀で特待生だった。学習院中等科の卒業式で、来賓の大隈重信が「外交官というものは男子一生の仕事である」という演説を聴いて感銘を受け、外交官への道に進んだ。
島津家から13代将軍・家定に嫁いだ天障院(篤姫)は、NHK大河ドラマ(2008年放送)で宮﨑あおいが演じて好評を博したが、家正の母が懐妊した時、当時まだ生存しており、家達邸に住んでいた。「今度、男子が生まれたら、是非島津家から嫁を貰って欲しい」と遺言し、家正は島津忠義の娘・正子と婚約したという。
家正は1男3女をもうけたが、長男が早世してしまったため、長女・豊子の次男である恒孝(つねなり。1940~)と養子縁組を結んだ。
徳川恒孝の曾祖父は、会津藩主・松平容保(かたもり/1836-1893年)、祖父は宮内大臣・松平恒雄、父は東京銀行(現・三菱UFJ銀行)会長・松平一郎である。会津松平家から徳川宗家の家督を継いだのは初めての事例となる。
恒孝は英国留学を経て、学習院大学政経学部を卒業し、日本郵船に入社。さすがに徳川将軍家の末裔だけあって、学習院卒としては異例の出世を遂げ、2001年に副社長に昇進。2003年、財団法人「徳川記念財団」を設立して理事長に就任した。
恒孝の長男・徳川家広(1965~)は慶応義塾大学卒業後、コロンビア大学などに留学。翻訳家、著述家として活躍している。いかにも徳川宗家らしい名前の持ち主だが、子どもの頃はNHKの人形劇「真田十勇士」を見て、真田幸村のファンになり、成人後はベトナム人女性と結婚。徳川宗家らしからぬ人物でもある。
この記事を書いた人
1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。