南向きより西向き? 北東が忌み嫌われる理由
正木 晃
2019/05/22
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個人住宅を建てる際、日本などの北半球では、日当たりを優先して、南向きにするのが普通です。もちろん、立地条件によっては、南向きにできない場合もありますが、南向きにできるのに、わざわざ他の方角を選ぶ人はまずいないでしょう。
ただし、同じ建築物でも、お寺には例外があります。南向きが多いのは事実ですが、全部が南向きとは限りません。阿弥陀如来を信仰して、極楽浄土への往生を願う浄土宗や浄土真宗では、極楽浄土が西方にあると経典に説かれているので、阿弥陀如来像を安置するお堂(阿弥陀堂)は、東向きに建てるのが通例です。京都の知恩院の阿弥陀堂も、同じく浄土真宗の東西本願寺の阿弥陀堂も、東向きに建てられています。京都にお出かけになる機会があったら、確認してみてください。
ちなみに、インドでは、陽が当たる当たらないという南北方向よりも、太陽が昇って沈む東西方向が重視されました。現に、弘法大師空海がもたらした曼荼羅は、胎蔵曼荼羅では東が上、金剛界曼荼羅では西が上になっています。なにしろ、暑いところなので、日当たりが良すぎるというのは、あまり好ましくなかったからといいます。ついでに申し上げれば、太陽は熱く照らし月は冷たく照らすといって、太陽よりも月のほうが尊ばれました。
ところが、中国では南北方向が重視されました。その背景には、皇帝を代表とする最高権力者は、「南面天子」といって、必ず南面するという通則があったからです。
南と北では、南が優位でした。陰陽の思想では、北が陰で、南が陽です。日本でもかつて、高貴な身分の婦人を「北の方」と呼んだ理由は、女性は陰とされたからです。典型的な男尊女卑ですが、この種の発想は、古代や中世の社会ではいたるところに見られます。
そもそも、北という漢字は、見てのとおり、二人の人が背中合わせになっている形で、仲違いしている様子が原型です。そこから、敗北とか敗走という熟語が生まれています。いずれにしても、縁起の良い字ではありません。したがって、古代の中国では、忌み嫌われるもの、たとえば墓地とか遊郭は、都の北側に設けられていました。
方角といえば、よく話題になるのが「鬼門」です。鬼門はうしとら艮(うしとら/東北のすみ維[すみ])を指します。鬼の出入り口というので、この名があります。反対側の西南の角は「裏鬼門」です。
「鬼」というと、頭に二本の角を生やした地獄の番人とか英語でいうデーモンを思い浮かべがちですが、この漢字は、古代中国では幽霊や亡霊を意味しました。もっとも、どちらも歓迎できない存在であることに変わりはありません。
鬼門は、もとはといえば、陰陽家が言い出した形跡があります。一説には、『黄帝宅経(こうていたくきょう)』という文献が典拠とされます。この文献は、超古代の神話的な存在である黄帝の著作と伝えられますが、実際には唐時代に成立したと推測されています。つまり、かなり怪しいしろものです。
やがて日本でも、そのかなり怪しいしろものに、仏教のお坊さんたちまでが影響されてしまいます。その結果、鬼門と裏鬼門に、鬼の出入りを防ぐために、堂塔伽藍が建立される事態となったのです。このいきさつには、いろいろ後ろめたいことがありそうな有力者を脅して金品を出させ、お寺を富ませるには、格好のすべだったという皮肉な見方もあります。しかしながら、近代以前の社会において、このたぐいの霊的存在が心底、恐れられていたのは、争えない事実です。
これは建物だけにとどまらず、都市設計でも用いられています。京都に例をとれば、鬼門には比叡山延暦寺が、そして裏鬼門には石清水八幡宮が、それぞれ立地しています。なお、石清水八幡宮は、正式名称は護国寺で、本来は神社ではなく、仏寺でした。江戸では、神田の護持院が江戸城の鬼門除けに建立された、と護持院の建立を第五代将軍の綱吉に進言した隆光(りゅうこう[1649-1724年]/生類憐れみの令の発案者)が、日記に書いています。
個人住宅でも、鬼門に当たるところに、祈祷札を貼る風習が、いまなお見られる地方があります。どうやら鬼門は、家相や墓相などとともに、日本人の精神世界に根強く残っているようです。
この記事を書いた人
宗教学者
1953年、神奈川県生まれ。筑波大学大学院博士課程修了。専門は宗教学(日本・チベット密教)。特に修行における心身変容や図像表現を研究。主著に『お坊さんのための「仏教入門」』『あなたの知らない「仏教」入門』『現代日本語訳 法華経』『現代日本語訳 日蓮の立正安国論』『再興! 日本仏教』『カラーリング・マンダラ』『現代日本語訳空海の秘蔵宝鑰』(いずれも春秋社)、『密教』(講談社)、『マンダラとは何か』(NHK出版)など多数。