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まちと住まいの空間

第2回 かつて島だった佃にいまも息づく生活の匂い(1/2ページ)

岡本哲志岡本哲志

2018/07/25

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タイムスリップさせる感覚

現在の佃は日常的に船で訪れる町ではない。一般には地下鉄を使う。その佃も、昭和39(1964)年に佃大橋が架かるまで、隅田川の対岸からは渡し船が主な乗り物だった。江戸時代初期から、佃は島であり、江戸の市中と至近にありながら、自然豊かな秘境を印象づける。広重などの絵画に、佃が江戸の特性を表現する重要な画題の一つとして取り上げられてきた。

関東大震災にも、東京大空襲にも被災と無縁の土地柄だった佃。現在でも、船で訪れる時に時代をタイムスリップする感覚を満喫させてくれる。すでに陸続きであるのに、江戸時代初期から永々と営まれてきた人々の生活環境が町や建物に色濃く刻印されている。

海との関わりでできた空間


掘割からの眺め

ただ、漁という海との関わりでつくられた佃の生活空間を実感するには、船で訪れるしかない。佃水門をくぐり、掘割に導かれた船は住吉神社の脇を抜け、右に90度曲がり、佃川支川に入る。目の前には佃小橋が架かり、船上での眺めは素敵だ。水との関わりから、海と深く結びつきながら成立してきた佃を肌で感じ取れる。


現在の佃と埋め立てられた掘割

佃に残る唯一の掘割が「佃川支川」、そこに架かる「佃小橋」。その名が気になる。「佃川」、「佃橋」でもよいように思うのだが。それも、もう少し水辺があった昭和30年代まで遡れば多少納得する。

40メートル以上もあろうと思われる佃の南側にある広い道路が佃大橋に向かって延びる。この道が昭和39(1964)年の佃大橋架設工事に伴い、佃川を埋め立ててできた道である。佃と月島の間の掘割が「佃川」で、そこに架かる橋が「佃橋」だったことから、現在佃の町中を巡る掘割が「佃川支川」、そこに架かる橋が「佃小橋」となってしまった。佃大橋が架けられたことで、佃と隅田川対岸の湊町をつないでいた「佃の渡し」も廃止された。

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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