若者よ老害になるな! 2種類の老害とそれを結ぶ「他者認知」の罠
2025/02/26

老害は2種類ある
老害、老害と、最近はやたらとこの言葉が巷に溢れている。意味は誰でも知っている。年老いた者が世の中におよぼす害のことだ。現在のわが国にあって、社会的課題としてどれくらい重要なものなのかはよく分からないが、いまどき確かに話題にならざるをえない程度のストレスにはなっている。
老害には、ざっと2種類が存在する(異見も承知するが、この記事ではそうしておく)。ひとつは「孤立型の老害」だ。日常身近なところで見られやすい。さらには「組織型の老害」となる。こちらは、さほどあちらこちらで見かけるものではないが、それがはびこる現場においては概ね深刻な問題となる。
両者の違いや、それぞれの特質について、この記事では簡単に説明していこう。そのうえで、主に若者に向け、将来老害にならないためのヒントを授けたい。すなわち、本記事は、はなはだ上から目線かつ、お節介な“老害テイスト”にまみれた記事となる。
孤立型の老害
老害を大きく2つに別けるうちのひとつは「孤立型」の老害だ。この老害はいわゆるクレーマーや、それに似たかたちの迷惑として世の中に顕在化しやすい。
たとえば、コンビニエンスストアやスーパーマーケットのレジ周辺、あるいは、駅や役所の窓口など。そこで時折見られる“キレる老人”はその代表的なものといっていい。
加えて、路上やバスの車内といった場所にもこれらの老害は期せずして現れる。自転車のベルをけたたましく鳴らしながら危険な走行をしたり、赤ん坊とベビーカーを抱えた母親に対し、邪険な態度を隠さなかったりといった具合となる。
会社の中にいる場合もある。
たとえば、若い時分からのトゲのある言動が周囲に嫌がられ、閑職に追いやられた定年間近の人物が、それでもエネルギーを持て余し、立場の弱い外部のビジネスパートナーに無理難題をふっかけてウサを晴らしているような、救いのないケースなどがそれにあたる。
孤立型の老害の特徴は、文字どおり「孤立」となる。
彼らは、何らかの理由で実際に孤立しているか、具体的にそうでなくとも心理的な問題として孤立感を抱えている。妻子、夫などからそれなりに見守られている場合でも、相手への猜疑心にかられているなど、心理的に孤立している場合、それは具体的な孤立に等しいものとなる。
そのうえで、孤立は、彼らの心中深いところでしばしばあるものを増大させる。それは、他者からの認知に対する欲求だ。孤立した人の多くは、他者から自分の存在を改めて認められたいと強く感じ始める。
なおかつ、その際、彼らの多くは「正義」を心の中に芽生えさせる。ここでいう正義とは、すなわち自らの人生を肯定するための土台となるものだ。併せて、自らの存在を周囲に知らしめ、注目されることによって自身への認知を成立させ、もって自らを立て直すための道具となる。
よって、そうした流れから、孤立した彼らは、まずは自身の正義を周りに知ってもらいたい立場に立つ。正義をアピールし、それを認められることで、彼らは自らの存在への認知を獲得する。そのことにより、孤立から解放されるのだ。あるいは、それを強く願っている。
そこで、彼らはとりあえず街に出たり、固定電話の受話器を持ち上げたりして、自らの正義を振りかざす。たとえば、公共のバス車内で他人よりも多くの空間を占拠しているベビーカーをつかまえ、声を上げて糾弾する。あるいは、コンビニのレジで店員を相手にあるべき接客マナーを指導する。または、市役所へかけた電話口でも似たような行動に出る。これらは、決してひまつぶしではない。彼らにとっては、まさに懸命なる正義の発露にほかならない。
このように、孤立型の老害は、たとえば退職し、子育ても終えて久しいなど、概して孤立しがちな立場に立つ老人の孤立がこじれたかたちで発生する。これに対する処方箋は、周囲が彼らの存在を早々に認めてやることだが、世のなかそう都合のよいかたちにはなっていない。
すなわち、彼らは正義を振りかざすごとに、賛同ではなく、「老害だ」と、まさかの“逆”認定を受けてしまう。もっと悲しい場合は無視される。そのため、自身への他者からの認知が一向に確立していかない状態となる。
そこで、彼らは致し方なく次のステージを探し、そこでまた正義を振りかざすわけだが、つまりは堂々巡りだ。それが延々と続いていくことになる。
(なお、上記の「ステージ」は、デジタル機器を扱える高齢者が増えるのとともに、現実には街頭以上にインターネット上で拡大している。SNSなどを見るとおりだ)
組織型の老害
組織型の老害は、孤立型とはまったく様子が逆となる。
こちらの老害は、周りからの認知を失ってなどいない。繰り返すが、その逆だ。彼らは認知されまくっている。すなわち、周囲から認められまくっているがゆえ、老害化しているというのが、組織型の老害がもつ顕著な特徴だ。
組織型の老害が見られるのは、文字どおり企業など組織の内側となる。つまり、この老害は人間の集団こそがこれを生み出すのだ。大きなところであれば大企業や、公益法人等の諸団体、小さなところでは町内会や地方の集落といったものまでが、しばしば組織型の老害を生み、育てるゆりかごとなる。
組織型の老害は、通常“カリスマ”と呼ばれる(呼ばれていた)存在でもある。
ある組織の中で目覚ましい成果を挙げた人物や、大改革を成し遂げた逸材などが、皮肉にも組織型の老害の芽となり、種子となる。
大きな仕事を成功させた彼らの周りには、当然ながら人が寄り集まって来る。
すると、ほどなく、そこにはある種のエコシステムがかたちづくられる。
それは、皆に尊敬されるカリスマの意向に沿い、認められれば、より大きなチャンスや権限が与えられ、活躍できるという、一種のハビタット(生存環境)といえるものだ。
やがて、そうしたハビタットの中、カリスマという大木を囲みながら、人々は自らを樹木として森を形づくっていく。カリスマを中心とした、カリスマと似た枝ぶりの木々による森だ。皆が似ているだけに、多様性に欠けている。
つまり、そんな森は脆弱だ。性質が一様なだけに、森を取り巻く外部の環境の変化に対し、しなやかに適応できず、翻弄されやすいかたちとなる。
そのうえで、カリスマ自身も老いていく。かつては鋭かったその知見や判断も、やがてはピント外れなものになっていく。
だが、カリスマはそのことになかなか気付けない。なぜなら、彼は、彼の好意と認証を得るために、彼のジャッジに対しては「イエス」としか答えてくれない、いびつなエコシステムに囲まれてしまっているからだ。
そのため、老いたカリスマの判断が、新たな時代のフレームからたとえズレてしまっていても、周りはそのことをカリスマには伝えない。なおかつ、それをしようとする無謀な“輩”が現れても、こうしたエコシステムは、自らの存続と維持のため、これを全力で排除する。
すなわち、老害だ。
組織が抱えるリスクや行き詰まりを指摘する声が黙殺されたり、誅殺されたりする「地獄」が、組織型の老害が君臨するもとではあちらこちらで生じるようになる。
そのうえで、カリスマは、いつまでも変わらない支持者たちからの肯定に担ぎ上げられ、自信を保ちつづける。同時に、組織における自らの必要性をも誤認する。一方で、組織はそのたび舵取りを誤る。やがては、何かの拍子に破綻することとなるわけだ。
気が付けば、まるごと腐ってしまったかつてのハビタットが、人々の欲が放ってきた異臭とともに、無残な姿を晒してそこに広がる末路となる。
「他者認知」への依存を避けよ
以上、老害を二分する(と、この記事において規定する)「孤立型の老害」と「組織型の老害」について述べた。
なお、このうち孤立型の老害に将来なりたいと思う若者は、ほぼいないだろう。理由は当然だ。周りからの認知を受けられず、毎日が寂しい余生となるからだ。
一方、組織型の老害ならば目指してもいいとするお調子者は、多少存在するかもしれない。なぜなら、こちらの老害の場合、生きている間に部下や後進にクーデターを起こされるなどせず、自らを老害だとはついぞ理解しないまま、人生のフィナーレを迎える幸運なケースも傍目からはたびたび見られる気がするからだ。
とはいえ、組織型の老害は、これにおもねるがための醜い争いを生んだり、前述の“地獄”が生じたり、あるいは、残された親族がある種の恥ずかしさや重荷を背負わされたりと、周りの人生への影響という点でやはり多くの人にとって迷惑だ。まともな人間であれば、これを望むべきでないだろう。
そこで、これら2つの老害に、自らがなってしまうのを避ける方法となる。
答えは、実に単純だ。
「自分への認知を他者に依存しないこと」だ。
孤立型の老害は、まさに自分への認知を他者に依存する姿勢から生じる。なので、そもそもこうした欲求がなければ、他人を振り向かせるため必死になったりせずに済む。正義を振りかざす必要もない。老害になりようがないのだ。
他方、組織型の老害は、他者からの認知に本人が溺れてしまうことによって生じる。なぜ溺れるのかといえば、それは、当人が他者の認知を喜ぶからだ。認知されることを喜び、嬉しがるがゆえ、人はそれを与えてくれる相手を愛するようになる。その結果、人間や世の中を見る冷静な目が失われてしまうことになる。
繰り返そう。老害になりたくないのならば、対策はシンプルだ。自身の存在への認知、あるいは承認、己のもつ正義への賛同、あるいは賞賛といったものをわれわれは一切他人に求めなければよいのだ。
「他者認知」に依存し、喜ぶ人生を送らなければいいのだ。
そうすれば、仮に寂しい老後であっても、そうならなくとも、われわれは老害というゾンビに化すのを避けられる。
だが、このことは実に難しい。
そして、これを困難と感じるのならば、われわれは誰もが皆、将来の老害候補であるといわざるをえない。
(文/朝倉継道)
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この記事を書いた人
コミュニティみらい研究所 代表
小樽商業高校卒。国土交通省(旧運輸省)を経て、株式会社リクルート住宅情報事業部(現SUUMO)へ。在社中より執筆活動を開始。独立後、リクルート住宅総合研究所客員研究員など。2017年まで自ら宅建業も経営。戦前築のアパートの住み込み管理人の息子として育った。「賃貸住宅に暮らす人の幸せを増やすことは、国全体の幸福につながる」と信じている。令和改元を期に、憧れの街だった埼玉県川越市に転居。