お彼岸の正しいお墓参り――遺伝子で分けられるお墓と人の関係
正木 晃
2020/09/14
©︎Milosh Kojadinovich.・123RF
日本人はどこから来たのか?
日本列島に居住する人々、つまり日本人の起源が縄文系と弥生系から構成されていることは、ご存じのとおりだ。そして、この二系統の遺伝子にかなり大きな違いがあることも、よく知られている。
人間の性別は、全部で23組46本ある染色体のうち、最後の1組にある性染色体と呼ばれる特殊な染色体によって、決定されている。男性はXとY、女性はYとYという組み合わせである。
最近の研究成果によると、「日本人の起源」をさぐるためには、男性しかもっていないY染色体を研究することが重要らしい。
人類はアフリカで誕生したのち、世界各地に広がっていった。その過程でY染色体も変化していき、現時点では発生した順番に、アルファベットのA~Tまでのタイプに分類されている。
A型とB型は発生以来ずっと、アフリカに居続けている。サン族とかピグミー族がこれにあたる。
そして、今から10万~6万年くらい前の段階で、「出アフリカ」といって、後発の型をもつ人類がアフリカ大陸を出て行った。その中にいたD型の遺伝子をもつ人々が、3万年くらい前に日本列島にたどり着いた。この人々が縄文人である。D型の遺伝子は今でもアイヌや琉球人によく見られる。
また、4万7000年くらい前に、後発のF型の遺伝子をもつ人々が、南アジアや西アジア方面に向かった。その中からK型の遺伝子をもつ人々が現れ、さらにK型の遺伝子をもつ人々からインド・ヨーロッパ系語族を形成するR型と中国の漢民族を形成するO型の遺伝子をもつ人々が現れた。このO型の遺伝子をもつ人々が、3000年くらい前に日本列島にたどり着き、弥生人となった。
K型に由来する遺伝子をもつ人々は、攻撃性が強い。だから、戦争が得意である。当然のごとく、他の先行する遺伝子をもつ人々を次から次へと駆逐し、全世界に広がった。
こういうと、K型に由来する遺伝子をもつ人々は、とても悪い奴ということになるが、幸か不幸か、世界の四大文明は、すべてK型に由来する遺伝子をもつ人々によって興されたことが判明している。要するに、K型に由来する遺伝子は、偉大な「文明」を生み出す遺伝子でもある。
3000年くらい前に日本列島にたどり着いたO型の遺伝子をもつ人々、すなわち弥生人も、すでに述べたとおり、K型の系統に属している。
縄文人のお墓と弥生人のお墓
日本列島に最初にたどり着いたD型の遺伝子をもつ人々は攻撃性に乏しく、戦いを好まない。また美的な感性が豊かで繊細で、創造性に富む。それに対し、O型の遺伝子をもつ人々は戦いを好み、敵対する者を容赦なく駆逐する。
その一方で、知識欲に富み、革新的で、組織力にすぐれ、強固な政治体制や国家形成など、文明化を志向する。両者が出会うと、どうなるか、結果は目に見えている。
案の定、日本人の場合も、O型の遺伝子が優勢になった。もっとも日本列島は大陸から海によって隔離されているので、D型の遺伝子をもつ人々を短期間で絶滅させるほど多くの人数は渡来できなかったらしい。そのおかげで、D型の遺伝子もけっこう残っていて、この絶妙な配合が日本人特有の性格や気質を形成してきたと考えられている。
D型の遺伝子をもつ縄文人のお墓は、大概の場合、個人単位で、しかも居住地に隣接してつくられた。つまり、生者と死者が同居していた。ところが、O型の遺伝子をもつ弥生人のお墓は、大概の場合、共同墓地のかたちをとり、しかも居住地の外につくられた。
今回のコロナウイルス禍でも如実にあらわれているように、感染症で死んだ人=遺体は、生きている者にとっては、はなはだ危険な存在である。それを考えれば、遺体は、居住地に隣接する場所ではなく、居住地の外に埋葬するほうが合理的だ。
現在でも、アフリカの一部などでは、エボラ出血熱のような致命的な感染症でも、近親者や知人が遺体に寄り添い、触りたがる。おそらく縄文人も同じように行動していたのであろう。
しかし、それはきわめて危険だ。その点、弥生人は冷静というか、心がやや渇いていたというか、とにかく危険を避けるという点でははるかにすぐれていた。どちらが生き残りに有利か――あらためて問うまでもない。
お彼岸の語源は、太陽に願いを祈る「日願」から
お彼岸の期間が春分・秋分という設定は日本独特のもの
お彼岸は、春分・秋分の日を中日として、その前後七日間にあたる。この期間は、彼岸会法要やお墓参りの時期とされる。
彼岸の語源は、仏教に求められる。古代インドの公式言語だったサンスクリット(梵語)の「パーラミター(波羅蜜多)」で、「到彼岸」と訳される。
ここでいう「彼岸」は悟りの世界とかあの世を意味し、迷いの世界とかこの世を意味する「此岸」と対になる。
ただし、お彼岸の期間が春分・秋分という設定は、仏教と関係がない。言い換えると、日本独特の行事なのである。
歴史をたどると、平安初期の大同元年(806)、諸国の国分寺の僧侶に命じて、春秋二仲月別七日に『金剛般若経』を読ませたという記録が、『日本後紀』に書かれている。その後、平安中期以降、浄土教が大流行して、彼岸の中日に太陽に向かって念仏すると、極楽往生するのに効果絶大とみなされるようになった。
また、仏教と関係なく、「日の伴」と称して、春分・秋分の日に、太陽に向かって終日、祈願する民間信仰がすでにあったともいわれる。
彼岸の由来は、仏教用語ではなく、「日願」だったという説もある。この「日願」は、太陽を「お天道様」もしくは「天道神」として崇める農耕儀礼だったようだ。
さらにいえば、古来、春分は農耕開始の時期とほぼ重なるとともに、山や海のかなたにいる祖霊や死霊が子孫を訪れる日でもあった。
このあたりは、縄文的な要素と弥生的な要素が絡み合っている可能性がある。ひょっとしたら、素朴な信仰がいつしか「文明化」されていったのかもしれない。
墓参りだけで終わらせてはいけない?
最終的には、日本仏教が以上にあげたさまざまな要素を吸収して、仏事に変換させ、お彼岸が定着したらしい。こうして、菩提寺やお墓は、仏教的な意味の「彼岸(悟りの世界)」を具現化しているという教義が生まれた。
このコラムの『新型コロナで帰省自粛、リモート帰省やインターネット墓参りで考える「墓参」の本当の意味』で述べたように、一般人を対象とする菩提寺の制度が成立したのは江戸初期のことだから、お彼岸が定着したのも、そう古い話ではない。
宗教人類学の第一人者、佐々木宏幹先生によれば、お彼岸の期間に、お寺参りすることは、仏の力によって、先祖の霊を幸福にするためである。お墓参りすることは、個々人が「ほとけ」になった祖霊をなぐさめるためである。これらの行為をあわせて、お彼岸とは、仏の力を回向して、彼岸(あの世)の先祖の霊を幸福にするための行為とみなされたのである。
とすれば、お彼岸はお墓参りだけでは済まない。お寺の本堂にあがって、ご本尊を礼拝するお寺参りが欠かせないことになる。
みなさんも、お墓参りの際は、ぜひお寺参りもなさっていただきたい。そうしないと、お彼岸の目的はまっとうされない。
この記事を書いた人
宗教学者
1953年、神奈川県生まれ。筑波大学大学院博士課程修了。専門は宗教学(日本・チベット密教)。特に修行における心身変容や図像表現を研究。主著に『お坊さんのための「仏教入門」』『あなたの知らない「仏教」入門』『現代日本語訳 法華経』『現代日本語訳 日蓮の立正安国論』『再興! 日本仏教』『カラーリング・マンダラ』『現代日本語訳空海の秘蔵宝鑰』(いずれも春秋社)、『密教』(講談社)、『マンダラとは何か』(NHK出版)など多数。