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まちと住まいの空間 第23回 大名屋敷地から町人地へ東京の高層ビルの足跡(日本橋・銀座編)

岡本哲志岡本哲志

2020/04/30

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大名屋敷に匹敵する土地を持ち始めた日本橋の豪商

近年、大名屋敷跡をベースにした超高層ビル立地の原則が崩れはじめている。

それは、江戸時代の大名屋敷地だけではなく、町人地だったエリアにも超高層ビルが建つようになったからだ。超高層ビルの立地動向から、江戸時代に町人地だった場所がどのように変質しはじめているのか。東京の都市空間のあり方を考えていく上では重要な視点といえる。

江戸時代の日本橋では、三井呉服店や白木屋といった大商人を誕生させ、大名屋敷に匹敵する土地をまとめて所有するようになる。それがごく一部だとしても、江戸時代の平均的な敷地規模(100坪程度)の単位ではない土地環境をつくりだした。近代に入ると、その広大な敷地を利用して、銀行や百貨店などの巨大建築物が建てられていく。百尺(約31m)の高さ制限があったが、敷地に占める建築面積の規模は大きい。関東大震災(1923年)以降には、日本橋の大地主である三井が借地経営するまとまった土地にも巨大構築物を建てるようになる。

銀座ではどうか。現在の町名である銀座は、江戸時代に町人地だった銀座地区と、武家地が大半を占めていた木挽町地区が合わさった範囲である。木挽町は、昭和26(1951)年に「銀座東」となり、昭和44(1969)年には町名が「銀座」となった。現在の銀座は江戸時代の異なる出発点が共存する。

このような特殊な背景を持つなかで、銀座は平成10(1998)年に銀座ルールを策定した。そのルールが後に地区計画から一歩進んで法制化していていく。銀座地区は最高高さ56mとし、木挽町地区は文化貢献を縛りとして超高層ビルの建設が可能となった。

日本橋の町人地に触手を延ばす現代の超高層ビル開発

日本橋や銀座といった江戸時代初期に成立した町人地は、砂洲の微高地に整然と町割りがなされ、そこに町家と長屋が配された。

京や大坂からすれば、江戸は不便な未開の地であり、江戸建設当初から商人を優遇する考えが徳川幕府にはあった。江戸時代の町人地の仕組みは、通りを中心に両側のブロック(幅京間60間×奥行京間20間、京間1間=1.97m)が一つの町を構成した。これが江戸の町人地のベースである。さらに、そのブロックを基本12当分し、間口が京間5間、奥行が京間20間の「町屋敷」と呼ばれる標準的な敷地規模とした(図1)。

図1、町人地の構成(街区、ブロック、両側町の関係)

町屋敷の中央には路地が通された。通りに面した側には町家、奥には路地の両側に長屋が並べられた。このような空間の仕組みは、明治に入ってからもあまり変化することがなかった。そのなかで、銀座だけは明治初期に西洋風の煉瓦街が形成され、街並み景観が大きく変化させたが、建物のスケールは大きな差異が生まれなかった。

関東大震災後には、町屋敷を統合した広い敷地に大規模な近代建築がより多く建てられていく。ただし、日本橋や銀座の場合は、丸の内に比べて一つ一つの敷地規模は小さく、丸の内ビルヂングのような巨大建築物が建つ可能性はなかった。せいぜい、日本橋の三越、白木屋、銀座の松坂屋(現・GINZA SIX)、松屋が最大規模の建築であった。しかも、百尺(約31m)の高さ制限が容積としての建物規模の巨大化を抑止していた。

日本橋と銀座に100mを超える超高層ビルが建つ時期は、いずれも平成16(2004)年と同じ年である。日本橋は、江戸時代江戸三大呉服店の一つであった白木屋の跡地に、超高層ビルの日本橋一丁目三井ビルディング(コレド日本橋、敷地面積8,185㎡、建物高さ約121m)が建った(写真1)。

写真1、日本橋一丁目三井ビルディング

江戸時代に町人地だった場所には、町屋敷を基本とした敷地サイズに建つ建築スケールを遥かに超える巨大建築が建つ。1万㎡を超える大名屋敷地での再開発とは、全く異なる論理のもとで超高層ビル化が日本橋で進展しはじめた。

日本橋の超高層ビル化の第2弾は、戦前に建てられた近代建築の旧三井本館(現・中央区日本橋室町二丁目1)の保存再生をセットに建設された日本橋三井タワー(建物高さ約195m)の誕生である(写真2)。その後の展開としては、街の歴史的な景観を視野に、百尺のスカイラインを揃え、古い歴史を持つ福徳神社を再興している。単にオープンスペースを確保するだけでない文化的資源を一体化し、町人地・日本橋の超高層化を進展させようとしている(写真3)。

写真2、旧三井本館と日本橋三井タワー

写真3、コレド室町

超高層ビルにノーと言った銀座、そして木挽町地区の超高層ビル化

銀座はどうか。2003年夏、松坂屋を中心とした銀座六丁目の再開発により、170mの超高層ビルを建設する構想が新聞などで公表された。銀座の都市空間の将来はどうなるのか、どうすべきなのか。ここから、銀座の人たちを中心に議論が巻き起こり、銀座は100mをゆうに超える超高層建築をノーといった。その結果、銀座地区では銀座通り沿いの建物高さ56mが上限となる。その第1号として、東京銀座資生堂ビルが建てられた(写真4)。

写真4、東京銀座資生堂ビル

その後、地区計画レベルの銀座ルールが法制化され、例外を許さない法的環境が整う。スカイツリーの展望台から銀座の方向を眺めると、超高層ビルに囲まれ銀座が窪んで見える。これが江戸の街区を継承し続ける「銀座らしさ」の表現である。しかしながら、銀座地区にも56mを超えるビルがすでにあった。バブル景気が終りに近づくころ、銀座地区内の銀座三丁目に高さ81mの王子製紙(現・王子ホールディングス)本社ビルが建つ(写真5)。

写真5、王子製紙本社ビル(2004年に帝国ホテル客室から)

平成3(1991)年のことだった。この建物は、公共性の高い広場的な公開空地を設けることにより、建物の高層化を図ったものだ。その後、バブルが崩壊するとともに、銀座には高層建築がしばらく建たなかった。2000年代に入り、木挽町地区で高層化の計画が進行する。平成15(2003)年には木挽町地区に銀座タワービル(95m)が建つ。さらに、銀座三井ビルディング(三井ガーデンホテル銀座プレミア、建物高さ108m、最後部高さ121m)が2004年に100mを超える超高層ビルとして銀座にはじめて誕生した(写真6)。

写真6、銀座三井ビルディング

銀座のなかでも木挽町地区といわれる、昭和通り沿いである。ここはもともと町人地だったところだ。いくら44mの広幅員の昭和通りに面しているとはいえ、超高層ビルが武家地だけに建てられてきた文脈がここで崩れる。

2013年2月、木挽町地区に竣工した歌舞伎座タワー(建物高さ138m、最後部高さ146m)は歌舞伎座の復元とセットに建てられた(写真7)。その土地は江戸時代大名屋敷(熊本藩細川家拝領屋敷)であり、町人地に建った銀座三井ビルディングとは意味合いを異にする。歌舞伎座の建て替えに伴い、超高層ビルを容認する要件として、木挽町地区では文化貢献を強く謳うようになる。56mを最高高さとした銀座地区とは異なる超高層ビル化の道筋を示すことになった。

写真7、歌舞伎座と歌舞伎座タワー

江戸の町人地をベースにした現代の日本橋、銀座を見てきたが、武家地だった丸の内、スーパースケールの街区であるニューヨークとは都市空間のあり方が異なる。日本橋、銀座における超高層ビルの建設を含めた都市空間のあり方は、個々の場所の都市構造を踏まえた上で再構築する必要があろう。街に超高層ビルが必要なのかも含めて。

 

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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