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まちと住まいの空間第15回【宮城県 江島 その2】

震災と過疎化で変わる離島――島の記憶をたどる(1/3ページ)

岡本哲志岡本哲志

2019/09/09

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写真1、久須師神社

江島の港からメインの道を上がると、道が幾つかに分かれる。そのひとつを右に折れ、階段状の細い道を上がって行くと「久須師神社」に行きあたる(写真1)。
この神社は、薬師如来を祀る薬師堂で、地元の人に「お薬師さま」と呼ばれてきた。明治28(1895)年に薬師堂が焼失する。再建に際して、村の鎮守の地位を五十鈴神社から引き継ぎ、「久須師神社」と改称した。神社の再建には、豊富な魚場を持つ江島ならではの話がある。一日の高級魚のアカウオ漁だけで、神社の寄進がかなったというのだ。現在の過疎化する離島では考えられないが、この時代は島の経済的な価値がしっかりとあった証だろう。

久須師神社の例祭は、薬師堂であったことから、お釈迦様誕生を祝う4月8日と決められていた。神社の例祭がお釈迦様の誕生日というのは、神仏習合していた時代のなごりを島民の方との会話から感じる。しかし、私が島を訪れた時は、石巻、女川など陸のほうに移っている子どもや孫を呼べるということから、5月5日の休日に例祭が行われようになっていた。ただ、過疎化は曜日の変更も無意味となりつつある。

久須師神社から山の方へ上がった木々のなかに、島にもう1つある神社「栄存神社」がある。そこではさらに江島の現実を突きつけられた。栄存神社は、17世紀に生きた禅僧の永存が流刑された地で、無念の思いで没した後に建立された栄存の墓所とともに、神社の周辺が島民の墓地となっていた。しかし、東日本大震災によって墓石は倒れ、いまも倒れたままの墓石が残るだけの光景を目の当たりにさせられた。震災後、修復されなかったのは、島民の多くが陸側へ移り、ご先祖の遺骨や位牌も同時に移してしまったからだ。

江島には立派な寺院、「満蔵寺」がある。天文12(1543)年に建立された歴史のある寺院である。建物は立派で、繁栄した島の一端が感じ取れる。境内には、長く続いてきた歴史を刻むように、碑に歴代の住職名が掘り込まれている。ここで住職に顔を出していただけるとほっとしたところだが、住職はすでに本土に移り住み無住職の状態が続く。人の影を感じさせない島での徘徊はここまでにして、再び久須師神社に戻ることにしよう。

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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