タワーマンションはなぜ憎まれるのか?
朝倉 継道
2023/06/07
タワーマンションは、なぜ憎まれるのだろうか?
それは、タワーマンションが「社会が共有・共用したいと潜在的に思っている空間の価値を過剰に私有占拠」するからではないか。
もっと平たくいおう。多くのタワーマンションは「みんなの場所」に居座りすぎる。
あえてわかりにくくいおう。タワーマンションは、人々にある種の「危機感」を抱かせる。
それが原因ではないか? 筆者の思う根源的な答えだ。
ちなみに、筆者はいま、仕事場の近くに建つ竣工間近の駅前タワーマンションを毎日眺めながら暮らしている。
ネットニュースの華
タワーマンションをディスる記事は、ネットニュースの華といっていい。
- 「やがてスラム化する」
- 「将来維持コストが莫大になる」
- 「見かけに反して壁などは重量対策のため貧弱だ」
- 「住人にいやらしいヒエラルキーが生まれる」
- 「忙しいときにエレベーターが来ない」
- 「風でよく揺れ、地震でよく揺れる」
- 「健康被害があるのではないか?」
- 「災害時は地獄と化す」――等々
世の中、これほどさんざんにボコられている商品もほかにあったものではない。(笑)
とはいえ、タワーマンションに限らず、住宅不動産といういわば総合的な商品においては、いずれもその中身にリスクとベネフィット(恩恵)、損と得が入り混じっている。
一戸建てには一戸建てならではの損・得がある。賃貸ももちろんそうだ。タワーではない普通のマンションもそうだ。そのことにどれもまったく変わりはない。
そうした、損・得や、リスクや恩恵が、予測にとどまらず現実化したとき、それはその住まいを選んだ人にとって「失敗」になったり、「成功」になったりする。
しかし、繰り返すが、それはどの住宅においても同じことなのだ。
人生で手に入らなかったものは否定するしかない
だが、タワーマンションにあっては、とかく世間から寄せられる恨みが激しいように感じられるのはなぜなのか。言い換えれば、恨みの総量が大きいのはなぜなのか?
- 「タワーマンションの住人が台風による水害で苦労した」
と、なれば、筆者を含む多くがこぞってそれを伝える記事に注目する。
- 「やはりタワマンはダメだ」
- 「住人は選択を誤った」(そしてオレは誤らなかった)
そう安堵し、溜飲らしきものを下げたり、テーブルの下の拳でそっと自己肯定感を握りしめていたりする。それはなぜなのか?
色々と言われるなかで、筆者が正解のひとつだろうと思っているのが、「自分の人生で手に入らなかったものは否定するしかない」との心理だ。
また、それに合わせたかたちでの、
- 「自分の人生で手に入らなかったものを手に入れた人に対しては、これを否定するしかない」
との想いとなる。
「オレの・ワタシの人生において、あそこに見える駅前のタワーマンションの高価な上層階と、それに付随するステイタスは、これまでも今後も手に出来ないものだ」
そうなれば、少なからぬ人にほろ苦い想いが生じることは想像に難くないといっていい。
持ち分を削り取られる危機感
とはいえ、一方で、筆者は特に都会のタワーマンションが人々に憧れられつつ、大いに憎まれることについて、実はそこにはもっと根源的な理由があるように感じている。
それが、冒頭に掲げた「社会が共有・共用したいと潜在的に思っている空間的価値の過剰な私有占拠」だ。
たとえば、こうなる。
- 「都市の駅前など便利な空間は、その利便性をみんなが共有・共用するべき空間であり、なおかつそうしたい場所だ」
- 「そこを誰かが専有し、専用する私的空間に削られたり、奪われたりはしたくない」
- 「ましてや、タワーマンションのような大きな規模でそうした空間が削られ、まるごと消え去るのには耐えられない」
つまり、これはある種の危機感といっていい。
すなわち、そこが人々皆に共有・共用されるほどの価値をもつ場所であるならば、その空間に対して、おそらく皆は心理的に「持ち分」を持っている。
よって、そこを削り取るという行為は、その目的が住宅のような排他性の高い私有物を存立させるためであれば、それはみんなの心理的財産における持ち分を容赦なく削り取っていることになる。
なおかつ、それがタワーマンションのような規模になれば、人々は深い意識の下で危険や恐怖すら感じるのではないか?
これが、どうだろう、筆者が以前より思っていることだ。
ちなみに、どれだけ巨大で高層な建物であっても、商業ビルやオフィスビルでは上記のようなことは起きない。
一定の公共性のもと、そこには皆の持ち分が、観念上残されるからだ。
息を詰まらされる郊外住宅地
筆者が以上のような考えをもったきっかけは、実は、タワーマンションとはまったく対照的な場所にある。
それは、都市郊外に広がる住宅地、いわゆるニュータウンといったものだ。
語弊があって大変申し訳ない。筆者は、ほぼ一様な一戸建てが視界の中に果てしなく並ぶニュータウンや、それに類する家並みの中にいると、ほどなく息が苦しくなってくる。
とはいえ、実は、筆者の親が暮らす故郷の実家もそうした風景のなかに建っている。しかしながら、親の住む家という逃げ場所があるので、そこでは心がどうにかザワめかずに済む。
だが、そうでないところでは別だ。終始落ち着かず、まことに息苦しい。
その理由を筆者は単純に風景の退屈さから来るものと過去には思っていたが、どうも違うと、ここ10数年ほど前から思い始めている。
理由は、「私」による圧迫だ。
郊外住宅地には、一戸建て持ち家という「私」が、視界360°にぎっしりとひしめいている。対して、公たる空間がない。
もちろん、小さな公園などはあったりする。だが、そこも落ち着ける場所ではない。
なぜなら、その公園によそ者の「持ち分」はほとんど感じられないからだ。そこもまた、当該住宅地の住人による持ち分にぎっしりとうずめられている様子のみが感じられる空間となっているからだ。
筆者にとって、空間における「私」は、ことほどさように強い圧力をもっている。
であれば、その「私」を何十戸、百何十戸とまとめて組み上げ、図太い棒状にしてわれわれの視界に高々と立ち上げたものこそが、タワーマンションなのでないか。
筆者以外の人々の中にも、筆者同様「私」の圧迫を意識・無意識によらず感じる人がいて、その数が意外と多いのならば、それこそがタワーマンションに住まない人がタワーマンションを憎む根源的な理由なのではないか? あるいは、タワーマンションを怖れる理由なのではないか?
ましてや、それが皆が持ち分を維持していたい利便の場所に建つのだから―――と、筆者はいまのところそんな風に思っている。
わが街のタワマンにある持ち分
さて、筆者が毎日眺めて暮らしている駅前タワーマンションのことだ。このマンションは今年中に完成し、わがまち最高層の高級物件となる。
駅徒歩1分。高層階部分からは、足元に繁華な街並み、遠くは関東平野の隅々から富士山までを見渡せる。朝、昼、夜、素晴らしい景色が望めるであろうまことに羨ましい物件だ。すでに住戸はすべて売り切れている。
そして、以下はここに住めないわれわれにとっての幸運であり、朗報となる。
あまりに駅に近く、利便性に溢れるこの建物にあっては、低層階に商業施設が入る。つまり、われわれの持ち分が生まれる。郊外住宅地の中の小さな公園とは違って、まさにわれわれの居場所・逃げ場所たりうる持ち分だ。
よって、このマンションにあってはその分「私」の圧迫感は薄められる。
商業施設のエントランスへ向かう人々の視界からは、中・高層階にひしめく住戸の存在はたびたび消え去りがちとなるだろう。その分、このマンションに対する皆の怨恨も薄められることになるはずだ。
(文/朝倉継道)
この記事を書いた人
コミュニティみらい研究所 代表
小樽商業高校卒。国土交通省(旧運輸省)を経て、株式会社リクルート住宅情報事業部(現SUUMO)へ。在社中より執筆活動を開始。独立後、リクルート住宅総合研究所客員研究員など。2017年まで自ら宅建業も経営。戦前築のアパートの住み込み管理人の息子として育った。「賃貸住宅に暮らす人の幸せを増やすことは、国全体の幸福につながる」と信じている。令和改元を期に、憧れの街だった埼玉県川越市に転居。