真面目な入居者は損をする? 「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」の功罪
朝倉 継道
2021/06/30
イメージ/©︎hanohiki・123RF
23年が経過したガイドライン
国土交通省による「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」が取りまとめられてから、もう23年が経過している。
賃貸住宅における、いわゆる「原状回復・敷金トラブル」を防ぐための基準だ。1998年に公表され、その後2004年および11年に改訂が行われている。
民間同士ではジャッジを定めにくい、事象が多様かつ、利害対立も深い懸案について、モノサシを指し示すべき立場の役所がよいモノサシを指し示した好事例のひとつだろう。
そのポリシーはゆっくりだが、業界によく浸透した。まずまずの効果を上げているものと感じられる。
ただ、残念だったこともある。それは、賃借人(入居者)に特別の負担を課す「特約」の要件、すなわち特約への抑えが甘いことだ。このことは現場において、いわば楽チン気分を生み出してしまった。特約を設定し、面倒はそこに放り投げるかたちにしておけばややこしい判断を迫られることはなくなる、といった風潮だ。
そのため結局のところ、現行の居住用建物賃貸借契約では、いわゆる「退去時クリーニング特約」がかなりの割合で一般化してしまっている。が、これは、筋悪(すじわる)なやり方といっていい。
建物をどれだけきれいに使っても負担を強いられる入居者がいる一方、そうでない入居者への追及はおざなりになりやすい点、居住年数の短い入居者が割を食いやすい点(あらかじめ一律の負担額が設定されている場合にこれが起こりやすい)、真面目な入居者が損をしたり、本来負担が少なくあるべき入居者の負担が重くなったりする、不公平なひずみを生むからだ。
ガイドラインがもたらした「功」
原状回復をめぐるトラブルとガイドライン(以下、ガイドライン)の高く評価されるべき点を挙げてみよう。ひとつはなんといっても、「損耗」の切り分けが適切であることだ。
例えば、「テレビ、冷蔵庫等の後部壁面の黒ずみ(いわゆる電気ヤケ)」や「家具の設置による床、カーペットのへこみ、設置跡」をガイドラインは「通常損耗」としている。賃借人が原状回復費用を負担すべき対象とはしていない。その一方、喫煙による壁クロスの変色については、原状回復につき、はっきりとタバコを吸った人の責任=賃借人負担としている。
すなわち、誰しもが行う一般的な行為の結果と、個人の嗜好による行為の結果が、ここでは論理的に切り分けられたかたちだ。
同様に、ガイドラインは、壁への画鋲の差し込みと、同じくクギやネジの打ち込みの間に、負担を分ける線を引いている。ただし、こちらは論理的には難問だ。いずれも同じく「賃借人の意志による建物への毀損」という、切り分けをしづらい行為となる。
そこでガイドラインは、今度は壁紙の奥の下地に一定以上の損害が及ぶか否かという、物理的な基準を引っ張り出しこれを判断している(画鋲までは入居者に負担なし)。いわば、柔軟かつ臨機応変に、課題を次々捌いているといったところだ。
加えて、賃貸住宅に暮らすうえでの賃借人が負うべき善管注意義務について、その存在を明確化し、具体的に示したこともガイドラインの功績として大きい。
とりわけ賃借人に責のない通常損耗であっても、事後の管理がよくなければ、善管注意義務違反として賃借人に負担が及びうることを細かく指摘した点において、当ガイドラインは、内容のバランスがよくとれた非常に納得性の高いものとなっている。
ちなみに、そう聞くと、どれも当たり前のことといった風にいまは感じられるが、ガイドラインが登場し、広く行き渡る前は、こうしたジャッジメントはつねに混沌としていた。入居者、オーナー、仲介・管理会社、さらには行政などの相談窓口も含め、各人の生い立ちも含めたものの見方の違いによる深刻な対立やすれちがいが、この問題では日常的に見られていた。
もっと踏み込んでもよかった?
一方で、ガイドラインは、前述したようなうらみも残している。せっかくの綿密な損耗の切り分けが、いわばチャラになってしまう「特約」を認めたことだ。
もっとも、「退去時、賃借人は室内クリーニング代を負担する」といった特約が契約に盛り込まれること自体については、契約自由の原則上、さらには消費者契約法の強行規定がこの部分には及ばないと現状解釈されることなどから、防ぎきれるものではない。しかしながら、特約個々の内容によっては、これが無効と判断される可能性も少なくない点を示すことについては、国交省は、もう一歩するどく踏み込んでおいてもよかっただろう。
もちろん、実際にガイドラインを読めば、特約の“乱用”をおさえるために、慎重なクギ刺しが何度も行われていることは、繰り返し見てとれる。
それでも、「経年変化や通常損耗に対する修繕業務等を賃借人に負担させる特約は、賃借人に法律上、社会通念上の義務とは別個の新たな義務を課す」ものであること、すなわち強引な“手口”である旨が、ガイドラインにははっきりと謳われている点、クリーニング特約が「通常損耗等についてまで賃借人に原状回復義務を認める特約を定めたものとは言えない」旨を示した判例も説明に引かれている点、これらをふまえたうえで、全体の構成としてはいわば押しが足りていない。
例えば、文中明示されている「賃借人に特別の負担を課す特約の要件」については、結果として特約を成立させるコツを賃貸人側へ伝授するかたちになっているが、そうではなくここでは逆に「特約が無効となる可能性を孕むケース」を列記しておく脅し(?)があってもよかったのではないかと、私などは考える。
(参考:上記「要件」の抜粋)
① 特約の必要性があり、かつ、暴利的でないなどの客観的、合理的理由が存在すること
② 賃借人が特約によって通常の原状回復義務を超えた修繕等の義務を負うことについて認識していること
③ 賃借人が特約による義務負担の意思表示をしていること
原則が広まることへの期待
ともあれ、おおむね素晴らしい出来といえる当ガイドラインは、結果的には最初に挙げたような不公平な契約内容を生む土壌も耕した。
繰り返すが、クリーニング特約にあっては、通常損耗と経年劣化以外のダメージをなんら物件に与えていない優良入居者も、一緒くたに金銭的負担を求められるかたちになりやすい。なおかつ、特約において一律な負担額が定められている場合は、それ以上の金額を請求しにくい空気が生まれることも相まって、いわゆる不良入居者が優遇されるケースも生じやすい。同様に、前記したとおり、入居期間の短い入居者ほど割を食う構造ともなっている。
そのためガイドラインが、原状回復をめぐるトラブルの発生を効果的に抑える一方、筋の悪い契約を世の中に数多く生み出す原因となっていることについては、残念ながらいまはこれを事実と言わざるを得ないだろう。
ではどうすればよかったかといえば、ガイドラインにおいては、賃貸物件のメンテナンス費用の創出における本来あるべきかたちがもっと主張されていてもよかった。そのかたちとは、そもそも当該原資は普段の賃料収入に含まれるべきとする原則を指す。投下資本の減価分を回収するうえで、善良な事業者ならば、これは誰もが当然にふまえるやり方だ。(ホテルは宿泊客に一律なクリーニング代を別途請求したりなどしない)
そのうえでこの原則上、物件に長く暮らしている人は相応に費用を積み立て、負担してくれていることにもなる。平等性の面でも合理的なものといえるだろう。
この記事を書いた人
コミュニティみらい研究所 代表
小樽商業高校卒。国土交通省(旧運輸省)を経て、株式会社リクルート住宅情報事業部(現SUUMO)へ。在社中より執筆活動を開始。独立後、リクルート住宅総合研究所客員研究員など。2017年まで自ら宅建業も経営。戦前築のアパートの住み込み管理人の息子として育った。「賃貸住宅に暮らす人の幸せを増やすことは、国全体の幸福につながる」と信じている。令和改元を期に、憧れの街だった埼玉県川越市に転居。