日本の禅僧とチベット密教が実践してきた身体を癒やす秘法
正木 晃
2020/06/23
イメージ/©︎Kitchakron Sonnoy・123RF
疲労回復の瞑想――軟蘇の法と甘露降浄法
心身の疲労は、新型コロナウイルスによる肺炎はもとよりウイルスや病原菌に対する抵抗力を失わせ、人を病気に罹りやすくしてしまう危険性をはらんでいる。この点は、修行に励む宗教者も変わらない。とりわけ医療事情が今ほど良くない時代には、修行の途上で重い病気に罹り、修行を中断せざるを得なくなったりときには死に至る例も少なくなかった。
そこで、「疲れたなぁ」と感じたときに、その疲労を癒すための瞑想法が、日本禅とチベット密教で創造され、ながらく伝承されてきた。日本禅の秘法は「軟蘇(なんそ)の法」といい、チベット密教の秘法は「甘露降浄法(かんろこうじょうほう)」という。
前者の「軟酥」とは、本来はバターのような乳製品のことだが、この場合は、柔らかくて温度を上げると溶けるという性質をもつものというくらいの意味である。一方、後者の「甘露」は、本来は天から降ってくる甘い露のことだが、この秘法の場合、その正体は後述のようにみだりに口外できない代物である。ともあれ「甘露降浄法」とは、甘い露が頭頂から降ってきて全身を洗い清めてくれるという意味になる。ということで、「軟酥」と「甘露」には、よく似た働きが期待されてきたといっていい。
実践「軟蘇の法」
「軟蘇の法」は、江戸時代に活躍した臨済禅の超大物、白隠慧鶴(はくいんえかく/1686~1769)が禅病に苦しんでいたとき、それを癒すために実践したことで知られる。
禅病の正体については諸説ある。今でいう精神障害であることは確かだが、その内実はさまざまなことが言われている。神経症という説もあれば、うつ病という説もある。統合失調症(精神分裂病)という説もある。なかには、これらが全部、同時に発症したとみなす見解もある。いずれにせよ、禅の厳しい修行が心身に尋常ならざる緊張状態を長期間にわたってもたらした結果、発症した点は疑いようがない。
「軟蘇の法」の実践方法は、以下のとおりである。
坐禅をしている自分の頭のうえに、鶏卵大の美味しく、見た目も美しい軟酥がのっているとイメージする。軟酥が体温で暖められて少しずつ溶け、頭のなかにしみ込んでくる。すると、頭のなか全体に、軟酥の香りや味がしみ込み、色もきれいになっていく。やがて軟酥は下降して、両腕・両乳・胸郭・肺臓・肝臓・腸・胃・背骨にも、その香りや味がしみ込み、色もきれいになっていく。
こうするうちに、心身のなかのあちこちに凝りかたまっていた病巣が、軟酥が下降していくに連れて溶け出し、下へ下へと流れ去っていく。そのとき、水が流れるような音がしてくる。この水はけっして冷たくなく、暖かいとイメージする。この水の流れは胴体全体を循環し、下に降って両脚に至る。すると、両脚はジワッと暖かくなる。両脚からさらに降った水の流れは、足の裏で止まるとイメージする。流れ降った水の流れは、目には見えない透明な風呂桶にお湯が溜まっていくように、下半身の周囲を満たす。まるで、温泉に入っているような感じがしてくる。冷え切っていた全身が暖められて、とても良い気分になる。そうイメージしながら、この境地を楽しむ――。
以上のような「軟酥の法」を、毎日毎日、実践する。そうしているうちに、いつしか心身の病は癒されていく……。
エロティックな「甘露降浄法」
一方、「甘露降浄法」も、厳しい修行に倦み疲れた密教僧が、その疲労や倦怠感を癒すために実践されてきた。もし「甘露降浄法」と「軟酥の法」に違いがあるとすれば、それは甘露降浄法のほうがずっとエロティックな瞑想法だという点だ。なぜなら、「軟酥の法」では、自分の頭に、美味しそうな食べ物がのっていると瞑想するのに対して、「甘露降浄法」では、自分の頭の上に、抱きあった男女のホトケがのっていると瞑想するからだ。したがってしたたり落ちてくる「甘露」の正体は、男女の体液が混じり合ってできた愛液にほかならない。なにしろ性器から流れ出てくるのだから、ちょうど人肌くらいの温度だ。どうやらややぬるめの温泉の湯を、頭からかぶっているような感じになるらしい。
頭の上にしたたり落ちてきた「甘露」は、頭から顔、顔から首、首から肩、肩から背中と胸、背中からお尻、胸からおなか、さらに太股や足、最後には足の裏まで、全身をうるおしていく。「甘露」は、皮膚の外側を流れ落ちるだけではなく、頭頂から身体の中にも入ってくる。「甘露」が身体の中に入ってくると、自分の身体と言葉と意識が過去において犯してきた過失がことごとく溶かされてしまう。そして、性器のところと毛穴から、真っ黒な液体となって流れ出す。このとき、肉体的な領域の過失や病はどろどろに腐った血膿として流れ出し、霊的な領域の過失は蜘蛛やサソリや魚や亀などのかたちをとって出て行く、と瞑想するといい。こうすれば、身体と言葉と意識が過去において犯してきた過失がことごとく清められる。
以上のように瞑想することで、疲れはきれいさっぱりぬぐい去られ、心身に新たな力がみなぎってくると説かれている。「軟酥の法」や「甘露降浄法」が現代人に効くか否か、保証の限りではない。しかし「ものは試し」というように、試みても損はないかもしれない。
この記事を書いた人
宗教学者
1953年、神奈川県生まれ。筑波大学大学院博士課程修了。専門は宗教学(日本・チベット密教)。特に修行における心身変容や図像表現を研究。主著に『お坊さんのための「仏教入門」』『あなたの知らない「仏教」入門』『現代日本語訳 法華経』『現代日本語訳 日蓮の立正安国論』『再興! 日本仏教』『カラーリング・マンダラ』『現代日本語訳空海の秘蔵宝鑰』(いずれも春秋社)、『密教』(講談社)、『マンダラとは何か』(NHK出版)など多数。