仮想現実の情報に踊らされる実社会 新型コロナウイルス問題で見えてきた現代の弱点
遠山 高史
2020/04/02
トイレットペーパー騒動で踊らされる現代人
T氏は、小さな商社の営業である。ここ数カ月、新型コロナウィルスの問題で対応に追われていた。中国の春節が長引き、貨物の輸送が思うようにいかないため、客から引っ切り無しに電話がかかってくるのだ。その日も、朝から忙しかった。なんとか納期遅延の説明を終え、ようやく一息ついた時、自分のスマートフォンに妻からメッセージが入っている事に気が付いた。
共働きなので、日中妻から連絡が入ることなどめったにない。何事かあらんと、メッセージを見ると、「ウィルス騒ぎで、これからトイレットペーパーが不足するらしい。買い置きしたいが、自分は大事な打ち合わせがあるので、外出できない。昼休みに、会社を抜け出して、どこかでトイレットペーパーを買ってきて欲しい。」というような内容であった。
T氏は、これを重くとらえなかった。
トイレットペーパーは自宅にストックがあったと思い、買う必要なしと判断した。中国の貿易事情は、痛いほど知っている。しかし、トイレットペーパーが不足しているという情報など入ってきていない。紙ぐらいで、大げさな、とさえ思った。
その日、T氏は遅くまで残業し、かろうじて「今日中」に帰宅できた。クタクタになったT氏に、妻が開口一番「トイレットペーパーは買ってきてくれたの?」と言った。
ムッとしたT氏は「今日は一日忙しくて、買う暇なんてなかったよ。ストックはあったじゃないか。」と言い返した。それが夫婦ゲンカのゴングになった。
ひとしきり言い争って疲れ果て、冷静になってから妻の話を整理すると、どうやら原因はSNSだった。コロナウィルス騒ぎで中国からの物流がストップしているから、店先からトイレットペーパーが消える…らしい…と、皆が言っていると妻は主張する。
確かに、その日の妻のSNSのチャット画面には、友人知人達からの、トイレットペーパー不足のメッセージがずらりと並んでいた。T氏は、うんざりしながら、うちにはストックがあるし、物流は制限されているのであって、完全に止まっているわけではないと、説明したが、妻は不安そうであった。
この「トイレットペーパーが不足する。」だの、「紙製品が不足する」だのという情報は、まったく根拠のない話だった。おそらく、始まりはなんということはない、誰かの悪意のない一文だったのではないだろうか。しかし、人々の不安があっという間にその情報をネットの海に拡散させ、膨れ上がった。さながらウィルスのように。
翌日、出勤途中でT氏は、開店前のドラッグストアに並ぶ長蛇の列と、「トイレットペーパーは各家庭1個ずつ」という張り紙をみた。SNSの情報を信じた客が殺到した結果、小売店のストックを一時的にせよ、空にしたわけだ。
実体験なくして情報は活用できない
この一件は、情報という物の危うさを知らしめた一例だろう。受け手がそれを信じてしまえば、実体のない文字列が現実にさえなるのだ。
世界中を結ぶネットワークのおかげで、誰もが簡単に情報を手に入れることができるだけでなく、発信する事も容易にした。それは大変便利で、良きことのように思えるが、無数のジャンクを生むことにもなる。われわれはより注意深く情報を選別しなければならなくなってしまったが、不特定多数の人間が無差別に発信する情報の渦の中では非常に難しい。
自身にとって必要な情報を選別する方法は、仮想現実の世界には絶対にない。
結局のところ、実社会で蓄積された経験がものをいう。危機管理能力という物は、実際に身に受けた困難や、人間関係にその都度対応していく事によってのみ養われる物だからだ。
得た情報を、有効に活用する能力もまた、経験に寄るところが大きい。情報は、それだけでは、ただの音であり、画像であり、文字列にすぎず、受け手によって、悪にも善にも変化する物だということを忘れてはならない。
件のT氏は、不安を募らせる妻のために、懇意にしている新聞店に頼んでトイレットペーパーを少しわけてもらうことにした。
嬉々としてトイレットペーパーを受け取る妻を見て「紙が無くなったって、水で洗えばいいじゃないか。死ぬわけじゃなし」と余計な一言をつけたので、数日の間、妻から冷たくあしらわれたそうである。
この記事を書いた人
精神科医
1946年、新潟県生まれ。千葉大学医学部卒業。精神医療の現場に立ち会う医師の経験をもと雑誌などで執筆活動を行っている。著書に『素朴に生きる人が残る』(大和書房)、『医者がすすめる不養生』(新潮社)などがある。