大須浜の祭に受け継がれる「家」の役割
岡本哲志
2019/05/30
前夜祭の神事
八幡神社に集まる役を務める人たち
宮守とは祭を行う村社の所有、管理する者を指す。祭事が行われる八幡神社はかつて宮守家の氏神が村社となったもので、浜の祭は宮守家が取り仕切る流れを維持してきた。大須浜の祭は長い歴史がある。ただ、雄勝法印神楽が祭のときに定例的に奉納された時期は、神仏分離後の明治初期からといわれている。
祭事(前夜祭)は、旧暦の3月14日に行われる。現在の暦になおすと、毎年日にちと曜日が異なるが、幸運にも私たちは、平成26(2014)年の春の祭に終始立ち合い、古い形式の祭を内側から体験することができた。
祭の前日に行われる祭事は、日が暮れかかる前に宮守家に氏子総代や祭の役を務める人たちが集まり、雄勝浜の宮司である小田宮司を先頭に、宮守、地区会長、氏子、祭典係などが神に捧げる海の幸、山の幸の供物を持ち神社に向かう(図1、写真1)。行列に参加しなかった浜の男性たちも洗米(白米)を包んだおひねりを持ち寄り、神社へ赴く。賽銭箱には白米のおひねりを入れて左右に分かれて席に着く。
神社内はかつて女人禁制だった。前夜祭はもちろん普段でも入ったことがないと浜の女性たちが口々に話す。ただし、近年、大須小学校の校長が学校行事の一環として祭事に参加しはじめ、2014年には赴任した校長が女性だったことから、女人禁制の世界が開かれた。
大須浜における前夜祭のルート
神社内はかつて女人禁制だった。前夜祭はもちろん普段でも入ったことがないと浜の女性たちが口々に話す。ただし、近年、大須小学校の校長が学校行事の一環として祭事に参加しはじめ、2014年には赴任した校長が女性だったことから、女人禁制の世界が開かれた。
神事は、宮司、宮守、神楽師が奥まった所定の位置に着席すると、神楽師による笛太鼓の演奏が始まり、宮司の祝詞へと続く(図2)。それが終わると、宮司が榊を用いてお祓いし、酒や大須浜で捕れた海産物・農産物などの供え物を神前に捧げる。玉串奉典は、進行役の会計係が一人ひとり名前を読み上げ、呼ばれた人が玉串を神前に捧げる。会計係の方の計らいで調査に訪れていた法政大学の名前が呼ばれ、代表として私が玉串を神前に捧げた。最後に集まった全員がお神酒を飲み交わし、神事が終了する。古くは、夜通し神とともに神社内で直会が行われてきたが、現在は翌日(旧暦3月15日)に行なわれる。
八幡神社内の平面と人の配置
大きな見せ場だった「海中渡御」
海中渡御する神輿
翌日(旧暦3月15日)朝、神事を終えた宮司が社殿から顔を出し、神社の正面入口前に置かれた神輿に御神体を移す。その瞬間、境内に集まった人たちは一斉に神輿に向かって頭を垂れる。祭の開始の狼煙が上がり、御神体の入った神輿が八幡神社の境内を「チョーサイ、ヨーサイ」と掛け声をかけて勢いよく右へ左へと大きく動きはじめる。神輿を高く押し上げ、神輿を「もむ」動作が繰り返される。
神輿が境内でもまれた後、宮司や宮守を先頭に、宮守の血縁者が担当する猿田彦命、氏子総代や祭典係が榊や供物、神輿を寄進した阿部源左衛門直系の現当主とその血筋の者が龍の鏡と紙垂を垂らした棒のようなものを2本差した龍の座する台を持って浜の港に向かう。現在の神輿は、当時大須浜で廻船によって隆盛を極め、肝入を務めていた阿部源左衛門が文久3(1863)年に深川でつくらせ、持ち帰ったとされる。このこともあり、阿部源左衛門家は宮守家が中心の祭の重要な役割が与えられてきた。
大須浜で神輿の最大の見せ場は海中渡御である。雄勝十五浜で唯一海中渡御を行う。神輿は、以前ちづり島(キツネ島)と呼ばれる八大竜王を祀る場所まで、大潮で海水が引いた海を歩いて渡った。だが現在は、3.11の地震により海底が地盤沈下した影響で、大潮の時期も潮が引かなくなった。2014年はちづり島に近い岸壁で神輿を休ませ、祝詞をあげることになった。そこで獅子舞も奉納された。奉納が終わると、神輿が海に入る(写真2)。2014年の海中渡御は、地盤沈下の影響から神輿の担ぎ手が首まで海水に浸かる。「チョーサイ、ヨーサイ」とかけ声をかけ、海水の冷たさに負けないように気合を入れる。
家々を回った神輿
かつては、海中渡御後に神輿が旧家の庭先を細かく廻り、宮守の家に至るコンパクトな神輿渡御だった。阿部源左衛門家の末裔の方の話によると、細い道から門を潜り神輿が庭に入り、屋敷内のオカミでは招待された人たちが威勢よくもむ神輿を楽しんだという。一時が過ぎると、神輿の行列に参加した役の人たちはオカミに通され、担ぎ手も神輿を休ませて庭先で酒や肴を振る舞われた。現在とは異なり、かなりの時間をかけて集落内を神輿が巡っていた。戦後に集落が拡大し、家の庭先で神輿をもむこともなくなる。トラックが導入され、広範囲を巡るようになり、学校の校庭など要所の公的な場でもまれるようになった。
集落内を巡った神輿は、宮守宅に向かい、その庭で「チョーサイ、ヨーサイ」の掛け声とともに勢いよく右へ左へと動き、神輿を高く押し上げてもむ。一時もまれた神輿は神楽舞台の前に設けられた場所に置かれる。神楽舞台に宮司、宮守とともに、役の人たちが座り、神事がはじまる。湯だて神事の後、法印神楽が奉納され夕暮れまで続く。
神に舞いを披露する日本武尊のシーン
神楽の奉納は一般的に神社の境内で行うことが多い。ただ、雄勝十五浜では基本的に宮守の家の庭先で仮設の舞台が設営され、そこで奉納されてきた。大須浜の神楽舞台はオモテザシキ前の庭先に設営され、神楽が舞われた(図3、写真3)。佐藤家宗家には多くの人たちが出入りする。昭和40年代に新しく建て替えられた母屋の間取りは、伝統的な広間型三間間取りを継承して建てられたが、宮守の家にしてはオカミが8畳と、江戸時代のオカミに比べ大変狭い。冠婚葬祭の時でも多くの人を呼ぶ時代でもなくなった時代背景があるようだ。ただ、江戸後期に建てられた建築のオカミと広さがあまり変わらなくなる。
佐藤宗家の平面と神楽舞台
祭の時は、建物内のウラザシキが神楽師たちの控室となる。出番が近づくと、神楽師たちはオモテザシキを通り庭に設営された神楽舞台へと移動する。オモテザシキの一部とオカミは来賓や神職、祭典係などが食事をする空間となる。庭は観客席として使われる。私的な空間が公的な場へと変わる。
御神体が入る神輿の前では、神楽の奉納がはじまる。神楽師が「打ち鳴らし」を演奏しはじめる。ちなみに、羽黒派の法印神楽は太鼓が2つ、笛が1つの構成で演奏される。宮司が祝詞を読み上げはじめると、もう一人の宮司が「湯立の神事」、釜に湯をたてて笹の葉で湯を払う。「湯立の神事」が終わると、法印神楽の奉納である。神楽の演目は浜によって若干異なるが、最初に行われる演舞は決まって日本書紀の国造りの話を神楽に取り入れた「初矢」が舞われる。神楽の舞台は四方に壁がなく、上部も含めて吹き抜けている。浜の風景を借景として様々なところから見ることができる舞台の仕組みは、演舞を雄大にし、豪快な演出を可能にする。演目によっては、舞台の演者と客席とで掛け合いが生まれる。芸能性を高めてきた雄勝法印神楽の真骨頂であろう。神楽の演目が進み、最後のクライマックスは日本武尊が悪鬼と戦うシーンである。戦いに勝った日本武尊は、神に舞いを披露し、剣を奉納して神楽は終わる。
夕方過ぎには法印神楽の演目がすべて終わり、舞台の脇にあった神の乗る神輿が動き出す。宮守の庭で神輿がもまれた後、神社に戻る前に再び旧集落の外れにある大須老人憩いの家(かつては小学校が置かれていた場所)に寄る。その場所で神輿をもむ。広い敷地の中でもまれる神輿は最大の見せ場でもある。最後に八幡神社に向かい、神社の参道の階段を上がる。神輿が神社へ着くと最後に数回もまれる。日が暮れて、あたりが暗くなるころ、社殿の前に神輿が置かれ、ご神体が再び本殿内に戻され祭が終了する。
この記事を書いた人
岡本哲志都市建築研究所 主宰
岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。