「大承認欲求時代」を君たちはどう生きるか
2023/08/01

最初は記事の「まとめ」から
最初に、この記事の内容を簡単にまとめよう。大きく2つだ。
- 「承認欲求」の種類を3つに整理する
- 「大承認欲求時代」となった現代を泳ぎ切るためのコツを伝授する
以上となる。
伝授などと偉そうに書いたが、筆者の承認欲求が思わず筆を走らせたものということで、ぜひ寛大にご承認されたい(笑)
現代は大承認欲求時代
今年前半、もっとも世間を騒がせたニュースのひとつに、回転寿司チェーン店を舞台に起きた迷惑動画事件がある。1月のことだ。不特定多数の客が使う調味料ボトルの注ぎ口を舐めるなどし、その様子を同行者に撮影させた少年の動画がSNS上に公開された。動画は拡散し、たちどころに炎上した。
似たようなインターネット投稿動画による事件は同時期ほかにもあった。そんな中、さまざまな経緯からもっとも注目されることになったのがこの一件だ。少年はその後、書類送検されている。
そうしたこともあって、最近ますますクローズアップされるようになった言葉に「承認欲求」がある。「他人から自己の存在や価値を承認されたい」という、われわれのほとんどが持つ切実な欲求だ。
承認欲求は、インターネット、なかんずくSNSが急拡大させたといわれている。そのため、いまどきもっとも目に触れがちな人間の業(ごう)ともなっているが、いわゆる「マズローの自己実現理論」に出てくる概念または定義としても、以前から有名だ(Abraham Maslow 心理学者 1908~70)。ゆえに、承認欲求といえばマズローが残した建て付けを差し置いては書きにくい雰囲気も無いではないが、この記事では気にせず書いていく。
3種類ある承認欲求
現在、われわれが世の中で見かける承認欲求には3種類があると筆者は思っている。区分けしていこう。
1.存在承認欲求
社会や集団の中で、自らの存在が周りから認知されること、なおかつ、その場に存在し続けることへの承認を求めるものだ。いわゆる居場所への欲求となる。あるいは、みんなに仲間だと認めてもらうことへの欲求となる。これは、承認欲求の基盤部分となるもので、マズローは「社会的欲求」として、承認欲求とは切り分けた段階のものとしている。
存在承認欲求は、われわれが成長途上、具体的には10代半ばくらいの時期に最も広範囲に心を支配されるテーマでもある。そのため、仲間外れにされたり、いじめられたりすることによるダメージがこの時期にあってはきわめて大きい。周りから存在や居場所を否定されることで、当該個人の社会に対する心理的欲求の大部分が損なわれることになるからだ。
さらに大人になってからも、われわれの多くは大なり小なり存在承認欲求に支配され続ける。スケジュールがつねに埋まっていないと不安になる人や、組織に貰った肩書きがないと自信をもって動けない人などはその典型だ。前者はスケジュールが埋まることで、後者は肩書きによって、自身への社会からの存在承認を確認し、安心を得ていることになる。
2.差別化承認欲求
周囲から存在を承認されながらも、それに加えて、自らを「差別化してほしい」とする欲求をいう。
「私はみんなの仲間の一人だ。だが、みんなとはちょっと違う。そのことをみんなは認めてほしい」というもので、ここでの他人との違いとは、要は、能力が優れていることを指す。
そのうえで、当該「能力」なるものが、容姿や家柄、知能、才能のように偶然に得られたものか、あるいは、地位、学歴のように自らの努力で勝ち取った度合いが高いものなのかは、基本関係がない。すなわち、差別化承認欲求は、存在承認欲求が一旦は満たされた上での欲求として、ある意味高次のものだ。
さらに、これが叶うチャンスを万人に開放した(あるいはしてしまった)のがインターネットだ。「いいね」「フォロワー数」「閲覧数」などのかたちで定量化されたスコアを求めて、いまや世界中の人々が血道を上げるようになっている。
3.破綻型承認欲求
いま述べたとおり、差別化承認欲求は、その欲求に応え、承認してくれる仲間(=コミュニティ、さらに広くはオーディエンス)があってこそ叶えられやすい。すなわち、差別化承認欲求は、繰り返すが存在承認欲求が満たされてこそ、健全(?)なリクエストとして社会に提示しやすいものとなる。
ところが、なかには存在承認欲求がほとんど満たされていないか、失われた状態で、それでも差別化承認欲求を強く求める人もいる。要は、自分を観てくれている観客がいないにもかかわらず、舞台を強引にこしらえ、そこでパフォーマンスしようとするかたちだ。これを破綻型承認欲求と呼びたい。
この破綻型承認欲求を満たしたい人は、当然ながらパフォーマンスを行う舞台と観客を自ら用意する必要に迫られる。そこで、彼はたとえば近所のコンビニエンスストアに出向き、そこで店員の軽微な不手際を指摘する。それに対し、店員がわずかに不満な表情でも浮かべれば、いよいよ舞台の成立だ。
彼は「待ってました」とばかりに店員を怒鳴りつけ、それによってほかの来店客を観客として舞台に巻き込む。パニック映画よろしく、周囲を凍り付かせることで自らのパフォーマンスに酔い痴れる。顧客満足の何たるかを世間に伝える正義の存在に自らを仕立て上げつつ、その後は数分から数十分をかけて、自らの差別化承認欲求を満たしていくことになるわけだ。
承認欲求は社会的欲求
承認欲求は、社会的な欲求となる。すなわち「社会」あるがゆえの欲求だ。
その点、生物としての人間がもつ根源的な欲求である「食べたい」「寝たい」などの生理的欲求や、「生きたい」「健康でいたい」といった安全への欲求とは一線が引かれるものとなる。つまり、承認欲求は、人間が社会を持つようになってから生じたものであることが明白だ。
すると、こんな疑問も持ち上がる。
「社会を持ったことの何が、われわれをして承認欲求を抱く『葦』にさせたのだろうか?」
これについて、近年は人類の進化史などに絡んでの面白い論考も多い。(岡田斗司夫氏の話などはおススメだ)
しかしながら、当記事ではそちらには踏み入らず、もっと下世話で役に立つ話をまとめたい。大承認欲求時代をわれわれはどう生きるか? だ。
大承認欲求時代をわれわれはどう生きるか?
大承認欲求時代である現代において、承認欲求がわれわれにおよぼすストレスには2種類がある。対策を分けて話そう。
1.他人の承認欲求に晒されるストレス
まずひとつ目、他人の承認欲求に晒されるストレスだ。何かを匂わせるSNS上の写真だの、いまだに「~なう」だの、「〇〇さんとどこどこで一緒です」だの、まことに面倒くさい(笑)
ところが、このストレスは案外簡単に解消出来る。それは、相手の承認欲求をすすんで「承認」してやることだ。
相手が何かを自慢したり、匂わせたりして、こちらに「羨ましがってほしい」と望んでいるようであれば、迷うことはない。「羨ましい!」と即座に反応する。
「すごいなあ、〇〇さんみたいになれたらなぁ」と、明るく憧れを表明してやる。
ウソではない。これで解決だ。
なぜ解決してしまうのか?
実は、このストレスは、承認欲求をぶつけて来る相手と自分との関係線上にあるものではないのだ。
他人の承認欲求に晒されることがなぜストレスなのかというと、答えは単純だ。自分はそれを承認したくないからなのだ。
ところが、ここにもう一人の自分がいる。この自分は正直だ。自慢してくる相手のことをたしかに「羨ましい」と思っている。つまり、戦いは自分の中で起こっている。
そのうえで、「承認したくない自分」と「相手を羨ましいと思っている自分」、どちらが本当の自分かといえば、実のところそれは後者だろう。
であれば、簡単だ。後者を勝たせるのだ。本当の自分を勝たせてやるのだ。
結果、本当の自分が勝ったのだから、それはすなわち自分全体の勝利となる。要はスッキリする。効果はてきめんだ。試しにやってみるといいだろう。
なお、面白いもので、これをやるとどういう心理か、鼻につく自慢話をしてくる常習者がその後トーンを下げたり、コンタクトしてこなくなったりする。そうなればますますラッキーだ。その後はさらに人生が快適になる。
2.自分の承認欲求が叶えられないストレス
一方、厄介なのが「自分の承認欲求が叶えられないストレス」だ。
なぜこれが厄介なのかといえば、それは承認欲求が「社会」への欲求であり、すなわち「他者」への欲求であるからだ。つまり、自分ではコントロールできない領域に対して、結果を求めなければならないからにほかならない。
しかしながら、かといって評価と承認を行う存在をここで「自分だ」と規定し、いわゆる自己肯定感を必死に念じることも、筆者の思うところあまり効果がない。
なぜなら、繰り返すが自分はあくまで他者ではないのだ。一部の天才を除いては、自身への承認を行う主体にはなりえないからだ。
そこで、筆者からの答えはこうなる。
諦めることだ。
努力はしても、結果については諦めることだ。
なぜ、自らの承認欲求を叶えることを諦めてしまうのか?
答えは、いま書いたとおりだ。それはそもそも自分ではコントロールできない領域にあるものだからだ。そんなものをコントロールしたいと考えるくらい無駄なことはない。われわれはそんなことに悩んだり、葛藤したりすることに、人生の貴重な時間を費やすべきではないのだ。
とはいえ、こうした葛藤から完璧に逃れうる超人というのも、実際なかなかいないだろう。
そこで、提案したい。悩んでいるヒマがあったら、あなたは開き直って他人の承認欲求を叶えてやる人になるといい。
つまり、結論はさきほどと似た話になる。そうなのだ。われわれは自分の承認欲求を叶える力を原理上持ち得ないが、他人の承認欲求ならばいくらでも叶えてやれる能力をもっている。
相手は、いかにも承認欲求を発露させているギラギラした人に限らない。街のドラッグストアでレジを打ってくれるアルバイターさんに対しても、工事現場で歩行者を誘導している警備員さんに対しても、心からのねぎらいをもって、その存在と仕事を承認するのがよい。
「ありがとう」と、笑顔で声をかけるのだ。
すると、その言葉はおそらくエコーとなって自分の脳に響いて来る。その効果について、脳科学的な説明を誰かがしてくれているとは思うが、自らの承認欲求が叶えられないストレスへの直接の治療薬にはならないものの、それに耐えうる心の力を保つためのサプリメントにはなるだろう。
以上、まとめよう。大承認欲求時代をわれわれはどう生きるか?
筆者の答えは、
「自らは承認欲求から逃れられない悲しい立場でいつつも、一方で他人の承認欲求を叶える人にもなること」
つまり、二刀流となる。
(文/朝倉継道)
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この記事を書いた人
コミュニティみらい研究所 代表
小樽商業高校卒。国土交通省(旧運輸省)を経て、株式会社リクルート住宅情報事業部(現SUUMO)へ。在社中より執筆活動を開始。独立後、リクルート住宅総合研究所客員研究員など。2017年まで自ら宅建業も経営。戦前築のアパートの住み込み管理人の息子として育った。「賃貸住宅に暮らす人の幸せを増やすことは、国全体の幸福につながる」と信じている。令和改元を期に、憧れの街だった埼玉県川越市に転居。