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自分へのエイジズム――年齢差別。人生を危険にさらす考え方

朝倉 継道朝倉 継道

2024/03/25

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「いい年をして」

エイジズムという言葉がある。「年齢差別」とか「年齢に基づく偏見」などと説明される。象徴的な例として、こんな言葉がある。

「いい年をして」

他人を年齢という枠に押し込み、そのあるべき姿を勝手に決めつける。そこから外れた振る舞いなどを見かけたとき、これを即座に否定する。その際、われわれの多くが最も口にしやすい一般的な言葉が、この「いい年をして」だ。

似たものに「女のくせに」「男のくせに」がある。「いい年をして」はこれの年齢版といっていい。

さらに、こうした偏見は、高齢者や中高年に対してだけではない。若者にも浴びせられる。「それは子どもの考えだ」「君たちはまだ世の中を分かってない」――などで、彼らの発想が無下に扱われる例など、枚挙にいとまがない。

これら、エイジズムに対して、不快や不満を訴える声は近年増す傾向にある。他者から押し付けられるエイジズム、他者に押し付けるエイジズムは無くそうとの意見だ。

一方、エイジズムの矛先は、実は他人だけではない。しばしば自分にも振り向けられる。自分自身に対して、年齢にもとづく差別や偏見を浴びせてしまうのだ。それは、どういうことなのか? この記事では、ある一例を挙げてその行為にともなう危険性を指摘したい。

「足」を失った夫婦

ある女性の話だ。仮にAさんとしておこう。年齢は72歳。某地方都市郊外に広がる高齢化率の高い住宅地――かつての「ニュータウン」に暮らしている。同居人は夫ひとり。こちらは77歳になる。後期高齢者のドアを開いてから少し経ったところだ。

この夫婦には、息子が2人いる。どちらも遠い昔に独立、家族を持ち、持ち家に住んでいる。彼らの暮らす街とAさん夫妻の暮らす街との間には、空路での行き来が通常なほどの長い距離がある。よって、その間の移動にはコストもかかる。息子たちは、おいそれと実家には帰れない。

なおかつ、Aさんとその夫には近くに住む親戚もいない。かつては数人いたが、いまは皆故人となっている。つまり、Aさん夫婦にあってはそばに身寄りがない。ほぼ孤立した状態だ。

さて、そんなAさんの夫だが、半年前、大病を患った。その影響で、彼は車の運転が出来なくなった。そのことは夫婦にとって一大事だった。なぜなら、妻であるAさんは車の免許を持っていないのだ。

そのため、夫婦は「足」を失った。いわゆる買い物難民となった。なにしろ、2人の住まいといえば、最も近いスーパーマーケットまで徒歩30分以上を要するところにある。その間、公共交通機関としてはバスがあるが、家から10分以上歩いた先の停留所には、昼間は1時間に1本きりしか停車してくれない。なおかつ、これに乗れたとしても、重い買い物荷物を抱えながらの帰路の乗車はしばしば立ち通しとなる。このことは、夫婦いずれにとっても体力的にかなりの試練だ。

加えて、不幸なことには、2人は通院難民ともなった。夫は、大病のあと定期的な診療、検査が欠かせなくなったが、スーパー同様に病院も遠いのだ。

さらには、銀行難民ともなり、市役所等の公共機関難民ともなった。とどのつまりをいえば、Aさん夫婦が無理なく歩いて行ける範囲に存在する“公共”の窓口といえば、今はコンビニが1軒のみとなる。

そのため、Aさんの子どもたちは、目下、緊急に協議せざるを得なくなっている。いずれが両親を引き取るか、住み慣れた家から離れるのを嫌う父親の説得も含めての話し合いだ。

40歳じゃ免許は無理

さて、以上のAさんだが、今猛烈に反省していることがあるという。それは、繰り返すが、彼女が運転免許を持っていないことだ。

40代に差し掛かった頃、Aさんはこう思っていたそうだ。

「私ももう40。この齢で車の免許なんてきっと無理」

50代初め。夫がその環境にひと目ぼれし、家族にほぼ相談のないまま土地を買い、現在住む家を建てたとき、彼女はこう思ったという。

「夫は浮かれている。でも、ここは車がないと生活できない場所だ。老後はどうなるのだろう? 彼は何を考えているのだろう? そうだ、私もいまから免許を取ろうか? けれど、もう50過ぎ。この齢では絶対無理だ……」

そして60代。Aさんは還暦を過ぎた。ところが――

「私はなんて若いのだろう。亡くなった母の60代の頃と比べて、今の私はなんてピンピンしてるんだろう。しかも、10年前はもっと元気だった。ひょっとして50代でも免許など余裕で取れていたのでは……」

今、Aさんは70代だ。

説明するまでもないだろう。こと、運転免許を取得するという課題に関して、Aさんは常に自分に対し、エイジズムによる卑下を浴びせてきた人なのだ。

なおかつ、それを(自分から)浴びせられるたびに、Aさんはこれに服してしまった。結果、今の事態となっている。

Aさん曰く、

「40代の頃、私が免許を取っていれば、今の30年後の私は、もしかするとかなりのベテランドライバーでした。50歳で取ったとしてもそうかもしれません。運転できなくなった夫を車に乗せて買い物をし、病院にも通わせ、家財なども整理しながら、子どもたちが手を差し伸べてくれるのをゆっくりと待つことが出来たかもしれません」

Aさんのもうひとつのエイジズム

このAさんの例のように、自身に浴びせるエイジズムは、自らの可能性の芽を摘むという意味において、人生に思わぬ危険を及ぼすことがある。

あるいは、危険とまではいかなくとも、人生の選択肢を乏しくさせ、先細りさせるきっかけに溢れた行為であることに、異論を唱える人は少ないに違いない。

なお、Aさん自身は気付いていないが、筆者は、彼女が持たなければよかったもうひとつのエイジズムにも気付いている。

それは、彼女が、運転免許のケースとやはり同じ理由で、ある社会の変化を拒絶してしまったことだ。

それは、「ネットとスマホ」だ。

アップルのiPhoneが初めて国内で売り出され(08年)、その後、瞬く間に世の中が「スマホ社会」となっていった時期、Aさんは50代の後半から60代の初め頃を過ごしている。

しかしながら、彼女はそこでも、

「スマートフォンとかインターネットとか、お婆ちゃん一歩手前の私にはもう無理――」

自身をエイジズムで黙らせ、チャレンジをさせなかった。

そのため、スーパーに買い物に行けなければ「ネットスーパーを利用する」選択肢を彼女はいまだ持てない。

同様に、インターネットバンキングにも手が出ず、そのメンタル的な余波を受けるかたちで、窓口に専門の“係”が控えていないコンビニATMにも足が向かないでいる。

加えて、その状況は、こちらもデジタルに弱い彼女の夫にあっても同じとなるわけだ。

危険な自分自身へのエイジズム

以上、自分自身へのエイジズムについて、一例を挙げてその危うさを示してみた。

もっとも、自分や社会に対する「節度」としてのエイジズムは、これは皆が多少は持っていた方がいい。そこが外れていると、たとえば中高年が改造バイクで往来を暴走し、不良少年よろしく警察に捕まるといったお寒い事例を社会が眺めることを強いられる。

よって、問題はそちらではない。繰り返すが、よくないのは自らの可能性を摘むかたちでの自身へのエイジズムだ。

「お年寄りには無理でしょ」と、他人に押し付けられるエイジズムに対しては、われわれは相手が他人ゆえ反発もしやすい。

しかしながら、自分が自分に対しそれをしてきた場合はそうではない。なぜなら、相手は自分自身だ。反発する選択肢があること自体に、われわれは気付けないことがあるからだ。

そうならないためには、日ごろから意識しておくことだ。

最も抗いがたく、危険度の高いエイジズムは、自分自身が浴びせてくる可能性が高いのだ。

これは、超高齢社会における人生のリスク管理という面において、おそらく大事なひとつとなる。

(文/朝倉継道)

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この記事を書いた人

コミュニティみらい研究所 代表

小樽商業高校卒。国土交通省(旧運輸省)を経て、株式会社リクルート住宅情報事業部(現SUUMO)へ。在社中より執筆活動を開始。独立後、リクルート住宅総合研究所客員研究員など。2017年まで自ら宅建業も経営。戦前築のアパートの住み込み管理人の息子として育った。「賃貸住宅に暮らす人の幸せを増やすことは、国全体の幸福につながる」と信じている。令和改元を期に、憧れの街だった埼玉県川越市に転居。

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