ウチコミ!タイムズ

賃貸経営・不動産・住まいのWEBマガジン

生活保護はほとんどの人が受けている 間違えたくない文明社会での「人を別ける」線引き(2/4ページ)

朝倉 継道朝倉 継道

2021/09/18

  • Facebook
  • Twitter
  • LINE
  • Hatebu

つまり、理屈はこうだ。

まず、われわれは、その一生を通じ、国なり自治体なりに、諸々の税金や健康保険料、年金保険料をはじめとするさまざまな納付金をおさめる生活を送っている。その一方で、多様な給付を国や自治体から直接、間接的に受け取っている。さらには、行政サービス等の提供も受けている。要は、上記共同体にお金を納め、その見返りを受ける流れが、まさに誕生の瞬間からその死に至るまで(正しくは遺体処理にも公費が投じられるため死後も少しの間)、切れ目なく続いていくかたちだ。

そのうえで、考えてみたい。

一体、われわれのうちの何人が、こうした給付やサービスに相当する金額以上の納付を一生涯のうちに終えられるだろうか? 言い換えよう。共同体との「生涯収支」を赤字にできるほどの人は、果たしてこの世に何割いるのか? なお、この計算においては、当然、自己負担分を超える医療費の給付や老後の年金のみならず、義務教育において表面上は無料化されている授業料など、共同体からの財貨・サービスの提供ありとあらゆる全てが含まれる。もちろん、司法・警察費用もだ。

すると、どうだろう。

「私が生涯にわたって共同体に納めた金額は、私が生涯にわたって共同体から受けた給付やサービスの金額を上回る。つまり私の生涯収支は赤字だ」

と、いえる人は、ざっと見て数十人にひとり、あるいは数百人に対し1人程度もいないのではないか。となると、われわれはその多くが、程度の違いはありつつも共同体による保護・援助を受けることで、ようやくまともに一生を終えられる存在ということになる。すなわち“被生活保護者”ということだ。

誰が「群れの利益にそぐわない」人間なのか?

一方、上記の意味においての生活保護のみならず、人生の一時期、あるいは多くの時期、心ならずも「制度上の生活保護」を受けざるをえない立場となった人について考えてみよう。この方たちは、件のメンタリスト的視点から見ると、要は社会のお荷物であるかのようにも感じられる。

次ページ ▶︎ | とんちんかんな線引きをするメンタリスト氏

  • Facebook
  • Twitter
  • LINE
  • Hatebu

この記事を書いた人

コミュニティみらい研究所 代表

小樽商業高校卒。国土交通省(旧運輸省)を経て、株式会社リクルート住宅情報事業部(現SUUMO)へ。在社中より執筆活動を開始。独立後、リクルート住宅総合研究所客員研究員など。2017年まで自ら宅建業も経営。戦前築のアパートの住み込み管理人の息子として育った。「賃貸住宅に暮らす人の幸せを増やすことは、国全体の幸福につながる」と信じている。令和改元を期に、憧れの街だった埼玉県川越市に転居。

ページのトップへ

ウチコミ!