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島津家②――激動の幕末、明治~大正での存在感(3/3ページ)

菊地浩之菊地浩之

2020/12/15

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明治、大正――島津家のその後

薩摩藩は長州藩とともに明治維新の原動力となったが、事実上の当主・島津久光の晩年は必ずしも満たされていなかった。

元来、保守的な島津久光は維新後、旧臣・大久保利通、西郷隆盛らが進める明治新政府の政策に納得しておらず、度々不満を漏らしては新政府首脳におそれられた。明治新政府は久光の慰撫に努めた。1869年の版籍奉還で当主・島津忠義が華族に列していたが、1871年9月に島津久光を島津家の別家として華族に列し、5万石の家禄を与えた。また、1873年に久光を内閣顧問、翌1874年に左大臣に任じた。しかし、1875年に久光は帰郷し、鹿児島城下の玉里邸で余生を送った。

久光の高孫(孫の孫)にあたる島津修久(のぶひさ)夫人は西郷隆盛の曾孫・伊津子(いつこ)。結婚式の仲人は大久保利謙(としあき、大久保利通の孫)だった。なお、昭和天皇の皇后・香淳皇太后は久光の曾孫にあたる。その皇太后の兄が学習院の健康診断で色覚異常だったことが判明。長州藩出身の元老・山縣有朋(やまがた ありとも)は、薩摩にゆかりのある皇后の誕生を阻止しようと、これを問題視した。ところが、これが大きな政治問題(宮中某重大事件)となり、山縣の権威が失墜。翌年には死去してしまった。

忠義の孫たちは「錦江会」(鹿児島湾の別称、錦江湾[きんこうわん]に由来するという)と称する親族の会合を催し、定期的に会合を重ね、昭和天皇夫妻、明仁皇太子夫妻(現 上皇)も過去に「錦江会」に参加していたという。

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この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

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