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島津家②――激動の幕末、明治~大正での存在感(2/3ページ)

菊地浩之菊地浩之

2020/12/15

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斉彬の死去、実権を握った久光


島津久光/国立国会図書館蔵

老中・阿部正弘は斉彬の手腕を高く評価し、将軍の義父となった斉彬を幕政に参画させようと企図した。ところが、1857(安政4)年に正弘が病死し、翌1858年7月に斉彬が死去してしまい、実現しなかった。

斉彬は遺言で、異母弟・島津久光の長男である島津忠義(初名・茂久[もちひさ])を後継者に指名。しかし、忠義はまだ19歳と若かったので、久光が国父(こくふ、藩主の父)として藩政の実権を握り、西郷隆盛ら斉彬の側近を次々と左遷し、集成館事業を大幅に縮小する。

1862(文久2)年4月、久光は「公武合体」の実現を目指し、1000人余りの藩兵を率いて上洛。勅使・大原重徳(しげとみ)を奉じて江戸に下り、江戸幕府に幕政改革を迫った。具体的には、「安政の大獄」で不遇をかこった有為な人材の復権。また、一橋徳川慶喜を将軍後見職、松平慶永(春嶽)を政事総裁職に就任させた。

鹿児島への帰路、武蔵国生麦村(神奈川県横浜市鶴見区)で隊路を乱したイギリス人を殺傷(生麦事件)。イギリスとの賠償交渉がこじれ、翌1863年に薩英戦争を引き起こす。しかし、薩英戦争を機に薩摩藩は西洋文明の優秀さを痛感し、集成館事業の復活や藩士のイギリス留学などに着手するようになる。また、薩英戦争の講和が成ると、イギリスと親密さを増し、鉄砲や軍艦を購入して西洋式軍備の導入に成功。ますます国力を高めた。

その一方、日本国内では同1863年の「八月一八日の政変」で会津藩と組んで長州藩を駆逐。また、横浜の開港問題で幕府と対立して、幕府と長州藩双方の怨みを買ってしまう。久光はやむなく西郷隆盛を赦免して、難しい政治状況の打開にあたらせた。

幕末の薩摩藩

1864(元治元)年、西郷は「禁門の変」「長州征伐」という難しい政局を乗り切り、薩摩藩の力を誇示することに成功するが、その過程で徐々に幕府との関係がこじれ、反幕的な姿勢に傾斜していく。

1866(慶応2)年、西郷隆盛、大久保利通ら薩摩藩首脳は長州藩と「薩長同盟」を結んで、武力による討幕へと方向転換していく。翌1867(慶応3)年10月14日に薩摩藩・長州藩に討幕の密勅が下されたが、同日に奏上された大政奉還により武力討幕の大義名分を失ってしまう。

薩摩藩は膠着状態を打開すべく岩倉具視と共謀。同1867年12月に朝廷は「王政復古」の大号令を発し、慶喜に完全な恭順を求めた。1868(慶応4)年1月の鳥羽・伏見の戦いにはじまった戊辰戦争で勝利し、明治新政府での実権を掌握したのである。

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この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

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