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まちと住まいの空間 第43回 江戸・東京の古道と坂道 森鴎外の住まいがあった団子坂をめぐる――三崎坂上からから~藍染川(2/3ページ)

岡本哲志岡本哲志

2022/01/21

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「団子坂」の名前の由来と江戸時代の観光名所になった理由

境川(藍染川)の谷筋から本郷台地の方へ上がる団子坂(東京都文京区千駄木5は、坂道ファンにとってメジャーな坂道の一つに数えられる)。この坂は森鴎外をはじめ多くの小説家が話題を提供してきた。『江戸名所図会』の「根津権現旧地」と題した挿絵には、絵の手前に右から左に上がる急な坂が描かれ、その坂が「千駄木坂」と記してある。本郷台地上にある千駄木一帯は、武家地として開発が進む以前、千駄木山と呼ばれる雑木林だった。


坂上から見た団子坂/東京都文京区千駄木5-1あたり(2020年撮影)


団子坂と根津神社の旧地、「根津権現旧地」『江戸名所図会』より

現在の「団子坂」は、『江戸名所図会』において長谷川雪旦が挿絵を描いた19世紀前半、「千駄木坂」と呼ばれていた。文政12(1829) 年に完成する『御府内備考』でも坂名を「千駄木坂」としており、江戸時代の公的な坂名だった。

『御府内備考』の解説では旧名を「潮見坂」とも。寛永期以前は、眼下に広がる内海(現・東京湾)の雄大な風景を率直に坂の名としたのだろう。「潮見坂」については、森鴎外の父が隠居の地として、坂上から一望できる東京湾の眺望を土地選びの条件とする。たまには潮見坂と呼びたくなる気持ちにさせる絶好の見晴らしだった。挿絵の右下隅に七面宮が描かれており、「七面坂」とも呼ばれた。

『江戸名所図会』(天保7〈1836〉年以前)が描かれた時代から、20年後の作となる広重の『名所江戸百景』(安政3〈1856〉〜5〈1858〉年)に「千駄木団子坂花屋敷」と題した絵がある。こちらの絵では「団子坂」がメインの坂名となる。「千駄木」は坂名ではなく、地域名として記したに過ぎない。


団子坂と花屋敷、「千駄木団子坂花屋敷」広重『名所江戸百景』、国立国会図書館デジタルアーカイブより

「団子坂」の由来には、「坂近くに団子屋があった」、あるいは「悪路のため転ぶと団子のようになる」からと一般的に説明され、他の「団子坂」でも同様の解説がなされてきた。『江戸名所図会』から『名所江戸百景』まで20年以上の年月が経過する間に、花屋敷の人気と、茶屋での団子の評判が高くなり、「千駄木坂」から坂の名が「団子坂」に変化したようだ。あるいは、江戸幕府の権力低下の影響もあり、庶民に親しまれていた坂名がメインとなったのかもしれない。

『江戸名所図会』の挿絵を再びじっくり見ると、坂の北側に駒込稲荷の文字が目に入る。これが元根津神社(不寝権現)である。現在の文京区立本郷図書館のあたりにあった。

宝永2(1705)年、甲府藩藩主だった徳川綱豊(後の家宣)が5代将軍綱吉の御世継ぎとして江戸城西の丸に移り、根津の甲府藩邸には綱豊の産土神として根津神社(根津権現)の新社殿が見違える規模で普請された。綱吉は綱豊を疎んじていたが、寺社の寄進には糸目をつけず異様なほど力を入れる。根津神社は大出世し、祭の際には江戸城内に入れた。

挿絵では、坂を隔てた南側に植木屋が広大な土地を利用して商う光景が描かれる。

江戸時代の植木屋はまるで庭園を鑑賞させるかのように、魅力的な空間演出で人々の関心を引き寄せた。坂に面した斜面地を利用して茶屋も並び、植木屋の庭を眺められる工夫がなされた。その後、「花屋敷」が江戸の観光名所として知名度をあげる。幕末から明治末にかけては、団子坂に菊人形の小屋が並び、さらに賑わった。団子坂の菊人形は明治40(1907)年ころが最盛期となる。

大名庭園~昭和初期のモダンな分陰を残す「須藤公園」

団子坂を上りきると、平坦な本郷台地が広がる。団子坂北側の台地は不忍通りの低地まで10m以上もある急な斜面が続き、そこを下る坂として大給坂、狸坂、動坂(不動坂)がある。上野に寛永寺が創建されたころの台地上はまだ雑木林が広がり、寛永寺に燃料を供給した。以前からの歴史も古く、その歴史を伝える天祖神社や駒込名主屋敷が現在も残り続ける。

団子坂上から動坂上に至る平坦な道沿い一帯は、東京大空襲で焼失を免れた。

江戸時代から戦前のモダン都市と呼ばれた時代まで、大名庭園の面影を残す須藤公園、関東大震災前の大正期の建物と庭が残る旧安田邸、昭和初期のモダンな雰囲気の旧島薗邸と、現在に重ねて体験できる。「団子坂」の魅力がより増すようにサポートしている。団子坂は周辺も含め素通りできない坂の一つだ。

須藤公園は台地と低地の斜面を体感するには絶好の公園である。

数年かけて公園の改修工事が進められ、平成30(2018)年7月にリニュアルオープンし、再び公園内の探索が可能になった。改修された公園脇には急勾配の坂道がある。関東大震災後に台地上が宅地開発された際に新しく整備された。

須藤公園は、大名庭園をベースに公園化され、江戸時代後期は加賀前田家の支藩である大聖寺藩松平備後守(前田利平、1824〜1849年)の下屋敷だった。明治に入ると、維新の功労者であり、明治30(1891)年第一次松方正義内閣内相(内務大臣)を務める長州出身の政治家・品川弥二郎(1843〜1900年)が一時邸宅とする。明治28(1889)年には実業家の須藤吉右衛門が所有し、長く住み続けた。明治、大正、昭和初期と、江戸時代の庭園が維持され続けた。昭和8(1933)年には庭園部分が須藤吉右衛門の親族から東京市に寄付され、戦後に現在の須藤公園となる。

緑に包まれた公園内には斜面をうまく活かした高さ10m近くもある滝、庭園の中心をなす池と中島があり、その島にある弁財天の祠堂に行く朱塗りの橋が架かる。須藤公園内の斜面上からは、北東方向に曳舟にあるスカイツリーを望むビューポイントが用意されている(写真3)。その先には遠景として筑波山が望めた。斜面地につくられた日本庭園の借景の雄大さを感じる。


台地上から見た須藤公園(東京都文京区千駄木3-4)、遠方にスカイツリーが見える(2017年撮影)

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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