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まちと住まいの空間 第41回 江戸~明治へとタイムスリップできる上野の坂道(2/4ページ)

岡本哲志岡本哲志

2021/10/21

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不忍池沿いの古道にかおる明治の趣

現代に戻り、清水坂を下りよう。

清水坂は、江戸時代に寛永寺正面入口の上野広小路側から緩やかに台地を上るメインの参道と合流する。桜の咲くころは大変賑わう桜並木、そのメインの坂をさらに上がると、韻松亭の手前左手で不忍池へと下る忍坂に出合う。忍坂沿いの斜面は木々が生い茂り、趣のある曲線を描く。下った先には不忍池が待ち受ける。


趣のある曲線を描く忍坂(2020年撮影)

不忍池を左に見て、上野台地際の崖下に沿って北上する道は古く、寛永期にはすでに通されていた。


図1/江戸時代の古道の変化

途中左手には水月ホテル鴎外荘(1943年創業)がある。ここは森鴎外(1862〜1922年)が「舞鶴」などを執筆した建物が一部保存され、当時にタイムスリップできる。鴎外が住んだ屋敷を手に入れた水月ホテルは、旧居とともに、庭に樹齢300年を超える榧(かや)の古木が残る。すでに成長していたこの木を鴎外が眺めたように、江戸時代へと思いがめぐる。

江戸時代、水月ホテルがある場所は寛永寺の御門主(東叡山目代、安政3〈1856〉年時点は田村権左衛門)の屋敷だった。樹齢300年の榧の木はそこに植えられていた。

明治に入って寛永寺が衰退すると、この屋敷を海軍中将となる赤松則良(1841〜1920年)が手に入れる。後に鴎外が住まう。

ちなみに、赤松は予備役となる明治25(1892)年まで千駄ケ谷の邸宅(本宅)におり、明治20(1907)年ころに建てたという静岡県磐田市見付の邸宅にその後移り住む。しかし、妻の貞が明治45(1912)年に亡くなり、独り身となった赤松は長男・範一(1870〜1945年)が住むかつての本宅に引き取られた。千駄ケ谷の家は関東大震災で倒破する。数年後に静岡の母屋を解体し、亡くなってからすでに10年近くの歳月が過ぎて、赤松の住み慣れた屋敷は東京に移築された。

森鷗外は、幕末の津和野藩に御典医の息子として生まれ、陸軍軍医としてドイツへ留学する。帰国した28歳の時、海軍中将赤松則良の長女登志子と明治22(1889)年に結婚し、上野花園町(現・台東区池之端三丁目)にある赤松の持家に住みはじめた。だが、登志子との結婚生活は1年ほどと短い。明治23(1890)年9月に登志子と離婚した鴎外は、本郷駒込千駄木町57(現・文京区千駄木一丁目23)に住まいを移した。
 
ホテルの並びには、昭和4(1929)年築の木造3階建看板建築、上田邸(旧忍旅館)がある。外壁はモルタルに目地を切ることで石壁のように見せる工夫が見られ、職人の技を彷彿させる。


職人の技を彷彿させる近代建築(2020年撮影

これらの建築が残ることから、このあたりが昭和20(1945)年の東京大空襲を逃れたと分かる。現在の不忍通りを挟み、西側の池ノ端七軒町(現・池之端二丁目)の全域が焼失したが、東側の根津松永町(現・根津二丁目)、花園町(現・池之端三丁目)、清水町(現・池之端四丁目)は火災を逃れた。

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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