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浅草・今昔物語 明治維新、戦争、高度経済成長、インバウンド、コロナ…… 時代に合わせて変貌を遂げた街(1/3ページ)

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写真/立木 信

かつては日本一の歓楽街だった浅草は実は記録ずくめの不思議な街だ。

娯楽では和洋を問わず、女剣劇、SKD(松竹歌劇団)の本拠地、オペラ、活動写真、馬券売り場、演劇、歌舞伎、寄席、落語、漫才、ストリップ、ドリフターズの公演……あらゆるものがあった。また、日本初の電動昇降機(エレベーター)付き観光塔「凌雲閣」など目新しいものも数々作られてきた。

ちなみに、今大ブームになっている『鬼滅の刃』の主人公である竈門炭治郎と、敵の鬼舞辻無惨(ボスキャラ)が遭遇するのも、この浅草なのだ。

『鬼滅の刃』では映画館や演劇、寄席など浅草の賑わいが描かれ、「キネマ」が密集する銀幕(活動写真)の発信基地だったのに今は、なぜか映画館が1つもない。大衆娯楽もテレビの登場で往年の賑わいはなくなってしまった。

中でも時代による浮沈の波が大きい浅草の今を運命づけたのは、関東大震災と東京大空襲だった。わずか半世紀のうちに2度にわたって焼け野原となり、浅草寺の本堂など文化的な建物の数多くが焼失。また、高度成長にも翻弄され、今、コロナ禍でインバウンドの需要も引いてしまった。

そんな浅草を歩いてみた。


現存する浅草演芸ホール

あらゆる娯楽が集積 その始まりは観音伝説

まずは浅草の象徴でもある浅草観音伝説の話から始めよう。

浅草寺の縁起は、推古天皇の飛鳥時代(628年)のころ、漁師の檜前という浜成と竹成の兄弟が、隅田川、現在の駒形橋あたりで観音像を網で掬い上げ、礼拝供養したというのが浅草寺の始まりとされる。

今では想像もできないが、この当時の浅草は周りを海に囲まれた台地で、蔵前あたりも時代とともに陸地になっていった。その昔、浅草では海苔がとれるような海辺だったらしい。

浅草が発展したのは江戸期で、「浅草御蔵」(今の蔵前)に米蔵が設置され、札差が登場したことによる。

地名は歴史を語るというが、文字通り蔵前には、日本全国から集められた米が運び込まれた。ご存じのように武士らへの給料は主に米で支払われたが、この米を金にも換えてくれる札差商人が生まれた。

金融を手掛けるこの商人は、富豪が多く、豪遊する場として浅草が発展してゆく原動力のひとつとなった。

さらに蔵前商人ばかりか、ほかの地域の商人や武士たちも浅草周辺に集うようになり、浅草は人・モノ・金が集まるようになった。地理的に見ても浅草は隅田川や水路で囲まれており、人やモノが集まるには都合がよい。それから江戸、明治、大正から戦後まで浅草にはあらゆる娯楽が集積した地域となった。

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この記事を書いた人

経済アナリスト

マクロ経済面から経済政策を批評することに定評がある。不動産・株式などの資産市場、国や自治体の財政のバランスシートの分析などに強みを持つ。著書に『若者を喰い物にし続ける社会』(洋泉社)、『世代間最終戦争』(東洋経済新報社)、『地価「最終」暴落』(光文社)などがある。

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