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今川家――桶狭間の負けばかりが注目されるが義元の本当の実力と幕末までの生き残り術(2/2ページ)

菊地浩之菊地浩之

2020/07/14

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信長、家康も手本にした義元の先見性

今川義元は甲斐武田氏・小田原北条氏と和議を結び、背後を固めてから西上して遠江・三河を完全に支配下に置いた。公家好みで、輿(こし)に乗って移動し、桶狭間で寡兵の織田信長に討たれたため、到って評判が悪いが、当時は「海道一の弓取り(東海道で一番の実力者)」といわれた大大名だった。

義元は30代後半の若さで家督を嫡男・今川氏真(うじざね)に譲り、氏真を駿府(すんぷ。静岡市)に置いて、自らは三河・尾張制圧に専心した。これは、信長が信忠に家督を譲って父祖の地・濃尾地方を任せ、安土城で天下を差配したり、家康が信康を岡崎城に置いて浜松城で遠江経略にいそしんだのと同じ構図である。むしろ、義元の発想を信長・家康が模倣したというべきであろう。この一つを取っても、義元が凡将でないことがわかる。

ところが、義元は桶狭間の合戦で呆気なく討ち死にしてしまう。従来は義元が上洛の途中で信長に討たれたと解釈されていたが、近年では三河の支配確保、もしくは東尾張への支配拡大を目的とした地域戦で、予想外にも落命してしまったという説が主流になりつつあるようだ。

あの吉良上野介とも親戚――江戸時代から幕末まで、今川家の生き残り術

義元が桶狭間で討ち死にして、今川家が滅んだと誤解されている方も少なからずいらっしゃるようだが、実態はそうではない。

義元の死後、一時、氏真は夫人の実家・小田原北条家に逃れたが、義父・北条氏康が死去すると、義兄・北条氏政は武田家との連携を強めて、氏真は居づらくなってしまう。結局、家康の元に転がり込んだ。

江戸時代になると、今川家は高家(こうけ)として活躍する。

高家とは、赤穂浪士の忠臣蔵で有名な、あの吉良上野介義央(きら こうずけのすけ よしなか)がやっていた儀礼の指南役、および朝廷との交渉役だ。この吉良家は前に説明したように今川家の本家筋にあたり、両家は江戸時代に入ると、緊密な婚姻関係を重ねていた。

中でも直房は、家康は死後、東照大権現として東照宮に祀(まつ)られる際に朝廷と交渉。一段低い東照社から東照大権現という宮号を得ることに成功し、家禄を1000石に倍増させ。江戸時代における「今川家中興の祖」と呼ばれた。その子孫も高家として遇されたが、幕末の当主・今川範叙(のりのぶ)が明治20年に跡継ぎがないまま死去。今川家は本当に滅亡することになった。

 

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この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

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