まちと住まいの空間 第28回 「ブラタモリ的」東京街歩き⑤――本郷台地を削った川の痕跡を歩く(2/3ページ)
岡本哲志
2020/09/23
見返り坂・見送り坂から、菊坂を流れていた川の痕跡を歩く
タモリさんたちは、埋め立てられたもうひとつの川の跡を探すために、本郷三丁目の本郷通り(旧中山道)に移動。菊坂にはもともと川が流れており、かなり蛇行していた。
本格的な川跡歩きの前に、2人はまず本郷通りで一番低い窪みを確認する。場所は、菊坂から本郷通りに出たあたりよりも、少し本郷三丁目交差点に寄ったところ。
本郷通り、奥が「見送り坂」、手前が「見返し坂」
現在は何の変哲もない窪みに見えるが、太田道灌(1432~86)の時代まで遡ると、窪地を流れていた川が領地の境界であり、橋が架けられていた。天保3(1832)年の『改撰江戸志』に、この橋は太田道灌の時代に領地から追放される人と見送りに来た縁者との別れの場となる「別れの橋」である。
橋を過ぎ、追放者が北に上る坂を歩きだし未練を残して振り返ることから「見返し坂」、橋から南に上る坂を縁者が見送るために立つ側の坂を「見送り坂」と名付けられた。現在の本郷通りは、江戸時代の中山道・日光街道である。特に日光街道は日光例幣使街道と呼ばれ、江戸と日光東照宮を結ぶ重要な道筋として位置づけられた。
元和3(1617)年に日光東照宮が創建されて以降、川は早い時期に暗渠化され、地下を通って菊坂に流れ出ていたと想像される。川の水源地は、現在の東大構内、旧加賀藩前田家が明治43(1910)年に明治天皇行幸に際して新たに築造された懐徳館の庭園(現在非公開)あたりだった。
東京大学構内にある懐徳館の庭園
本郷三丁目交差点の角は、江戸時代中期以前から小間物屋の「かねやす」(文京区本郷二丁目)が店を構えていた。元禄年間(1688〜1704)に売り出された歯磨き粉の乳香散(にゅうこうさん)が大当たりし、「兼康(かねやす)」を創業する。だが、暖簾分けした芝の兼康と元祖争いとなり、南町奉行の大岡越前守忠相(1677〜1752)の裁きにより、本郷の店が平仮名の「かねやす」となった。
しかし、享保15(1730)年には湯島や本郷一帯が大火で「かねやす」は燃えてしまう。復興に尽力した大岡越前守は「かねやす」から南側を土蔵造りや塗屋の耐火建築とするように命じ、江戸市中と比べて遜色のない都市風景が誕生した。そのことから「本郷も かねやすまでは 江戸の内」の川柳がつくられた。
この記事を書いた人
岡本哲志都市建築研究所 主宰
岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。