お彼岸の正しいお墓参り――遺伝子で分けられるお墓と人の関係(2/4ページ)
正木 晃
2020/09/14
縄文人のお墓と弥生人のお墓
日本列島に最初にたどり着いたD型の遺伝子をもつ人々は攻撃性に乏しく、戦いを好まない。また美的な感性が豊かで繊細で、創造性に富む。それに対し、O型の遺伝子をもつ人々は戦いを好み、敵対する者を容赦なく駆逐する。
その一方で、知識欲に富み、革新的で、組織力にすぐれ、強固な政治体制や国家形成など、文明化を志向する。両者が出会うと、どうなるか、結果は目に見えている。
案の定、日本人の場合も、O型の遺伝子が優勢になった。もっとも日本列島は大陸から海によって隔離されているので、D型の遺伝子をもつ人々を短期間で絶滅させるほど多くの人数は渡来できなかったらしい。そのおかげで、D型の遺伝子もけっこう残っていて、この絶妙な配合が日本人特有の性格や気質を形成してきたと考えられている。
D型の遺伝子をもつ縄文人のお墓は、大概の場合、個人単位で、しかも居住地に隣接してつくられた。つまり、生者と死者が同居していた。ところが、O型の遺伝子をもつ弥生人のお墓は、大概の場合、共同墓地のかたちをとり、しかも居住地の外につくられた。
今回のコロナウイルス禍でも如実にあらわれているように、感染症で死んだ人=遺体は、生きている者にとっては、はなはだ危険な存在である。それを考えれば、遺体は、居住地に隣接する場所ではなく、居住地の外に埋葬するほうが合理的だ。
現在でも、アフリカの一部などでは、エボラ出血熱のような致命的な感染症でも、近親者や知人が遺体に寄り添い、触りたがる。おそらく縄文人も同じように行動していたのであろう。
しかし、それはきわめて危険だ。その点、弥生人は冷静というか、心がやや渇いていたというか、とにかく危険を避けるという点でははるかにすぐれていた。どちらが生き残りに有利か――あらためて問うまでもない。
この記事を書いた人
宗教学者
1953年、神奈川県生まれ。筑波大学大学院博士課程修了。専門は宗教学(日本・チベット密教)。特に修行における心身変容や図像表現を研究。主著に『お坊さんのための「仏教入門」』『あなたの知らない「仏教」入門』『現代日本語訳 法華経』『現代日本語訳 日蓮の立正安国論』『再興! 日本仏教』『カラーリング・マンダラ』『現代日本語訳空海の秘蔵宝鑰』(いずれも春秋社)、『密教』(講談社)、『マンダラとは何か』(NHK出版)など多数。