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斎藤道三に追い出された美濃の土岐家と明智光秀の関係(2/2ページ)

菊地浩之菊地浩之

2020/06/24

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歴史オタクの家康によって高家と大名に取り立てられて

頼芸の嫡子・土岐頼次(よりつぐ)は、松永久秀(吉田鋼太郎)、豊臣秀吉(佐々木蔵之介)を経て、徳川家康(風間俊介)に仕え、旗本になった。頼次の子・土岐頼勝(よりかつ)は1000石を領し、高家(こうけ)に列した。赤穂浪士に討たれた吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)で有名な、あの高家である。つまりは、名門の家柄なので高級旗本として遇してあげるから、儀式・礼典でがんばってくださいということなんだろう(斬りつけられない程度にね)。

ところが、頼勝の曾孫・土岐頼泰(よりやす)が、こともあろうに酔っ払って通行人を傷つけた(斬りつけちまった?)ので改易されてしまう。高家の座は、一族の土岐頼元(よりもと)の子孫が引き継いだ。

実は土岐一族は大名にもなっている。

子孫が幕府に提出した系図によると、明智光秀の一族・土岐定政(さだまさ:旧姓・菅沼)は美濃国多芸(たぎ)郡に生まれ、2歳で父が討ち死にしたので、母の実家・三河の菅沼家に身を寄せ、家康に仕えた。数多くの武功を上げて1万石の大名となったのだが、家康は歴史オタクの名門好きなので、土岐姓を名乗るように命じたという。

明智光秀で有名な明智家は土岐一族と称しているが、真偽は不明で、ここにあげた系図も偽系図の可能性が極めて高い。明智家は美濃明智の発祥とされるが、美濃には可児郡明知庄(かにぐんあけちのしょう:岐阜県可児市瀬田)と恵那(えな)郡明知(岐阜県恵那市明智町)の2つの明智が存在する。2つの明智はともに東美濃に位置するが、困ったことに、定政が生まれた多芸郡(岐阜県養老郡養老町)は西美濃にある。むしろ、多芸郡の土岐多良庄(ときたらのしょう)近くの生まれだから土岐を名乗った考えた方が合理的だと思われる。

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この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

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