忠勤と義理で各時代に名君、平成には総理大臣も輩出した細川家(2/2ページ)
菊地浩之
2020/05/23
派閥抗争で明治維新の時流に乗り遅れ
相次いで名君を世に出した細川家ではあったが、幕末には藩内が派閥抗争に明け暮れ、薩摩藩に隣接する大藩でありながら、明治維新で時流の波に乗れなかった。しかし、大正時代に家督を継いだ細川護立(もりたつ)は、美術界のパトロンとして名を馳せ、その長男・細川護貞(もりさだ)は第二次近衛内閣の首相秘書官に任命され、内閣企画院調査官、高松宮宣仁(たかまつのみや のぶひと)親王の御用掛、国務大臣秘書官を歴任。近衛文麿や高松宮宣仁親王の政治工作を裏方として支えた。その際の動向を記した『細川日記』は、戦前・戦中の政治史の貴重な史料になっている。
護貞の妻・温子(よしこ)は、総理大臣・近衛文麿の次女で、二人は幼なじみで恋愛結婚だったという。近衛文麿の長男・近衛文隆がシベリヤ抑留で無念の死を遂げたため、近衛家は護貞の次男・護煇(もりてる)を養子に迎え、近衛忠煇(ただてる)と名乗らせた。
護貞の長男・細川護煕(もりひろ)は朝日新聞社入社後に参議院議員となり、大蔵政務次官などを経て、熊本県知事に就任。熊本藩主直系の子孫が県知事に就任したことが話題となり、ユニークな政治手法で注目を集めた。1992年に日本新党を結成し、代表に就任。1993年7月の衆議院選挙で新党ブームを巻き起こし、自由民主党が議席の過半数を割ると、7党連立で内閣を組閣。翌8月に第79代内閣総理大臣に就任した。
ウルグアイ・ラウンドに従ってコメの部分開放に踏み切り、政治改革四法を成立させ、衆議院に小選挙区比例代表並立制を導入するなど、意欲的な政治姿勢を見せたが、1994年2月に佐川急便グループからの資金提供問題が浮上すると、4月にはあっさりと退陣。「祖父・近衛文麿譲り」の無責任さと揶揄(やゆ)された。還暦を機に議員辞職し、陶芸家として悠々自適の毎日を過ごしている。護煕の長男・細川護光(もりみつ)も陶芸家の道を歩んでいる。
この記事を書いた人
1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。