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まちと住まいの空間

第7回 伊豆・福浦――南イタリアの港町のような美しさと江戸自体の息づかい(3/3ページ)

岡本哲志岡本哲志

2018/12/19

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福浦の空間構成


写真4 子之神社の参道

急な階段の途中、南を向いた子之神社の社が眼下に見えてくる。この神社の創建は、鎌倉時代と書いた由緒がある。実際には、さらに古くまで遡る可能性を周辺に漂う空気から感じる。子之神社と隣り合った海側には、天正6(1576)年以前の建立とされる醍醐院の本堂が音無川に向けて建つ(写真4)。


写真5 音無川と両岸に建ち並ぶ家々

参道も唯一流れる川に向く。音無川沿いの斜面地には家々が密集する(写真5)。


写真6 子之神社と海を結ぶ道

子之神社は、醍醐院と同様に、直角に西に折れた立派な参道が音無川に向く。ただもう一つ、子之神社からは、海に向かう細い道も真直ぐ南に延びる(写真6)。現在は、醍醐院の裏を抜けるかたちだが、海との関係の強い福浦であるから、むしろ海に向かう参道の方が古いように思われる。

江戸時代の福浦は、寛永初期の24戸から、200年近くの間に93戸(天保4年)と4倍近くに増加した。戸数の伸びは、特に寛文12(1671)年から寛政4(1792)年の間にかけて集中する。丁度河村瑞賢が東廻り航路を整備した寛文12(1671)年の直ぐ後からであった。ほとんどの家は船乗りで、漁業と廻船が主の寒村にも物流の拡大と江戸の膨大な消費が影響したものと考えられる。それでも、福浦は、真鶴に比べて自然の良港となる入江にめぐまれなかった。そのことから、廻船に関しては沖と内陸を橋渡しする小規模なものに限られた。漁業以外では、わずかな畑地と石切が少しだけ生業を助けた。

かつて小さな入江となっていた、海に流れ出る音無川河口付近は、船溜まりも兼ねた港機能が集中していた。この小さな入江には道が古くから集まった。道幅の狭い、階段状の道が港を起点に斜面を上がりながら集落を形成する。幾つもの坂道が集まる辺りから子之神社の下まで、現在も立派な屋敷が見受けられ、福浦の中心であり続けている場所だとわかる。この仕組みが長い年月を経ても変化することなく残り続ける。それほど変化を許さない地形形状の上に、この港町が成立した。ひっそりと歴史を刻んできた福浦だが、内陸側に潜在する空間のあり様は魅力的である。

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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