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第3回 「ブラタモリ」に登場した羽田の漁師町を歩く①――湊はどこにあったのか?(1/2ページ)

岡本哲志岡本哲志

2018/08/28

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羽田の漁師町を歩くことに

2011年1月20日に放送されたNHKの「ブラタモリ 羽田」に出演した。羽田空港D滑走路が2010年10月21日に完成したことで、羽田が「ブラタモリ」に取り上げられた。羽田空港が再び国際空港化する機運の高まりとともに、最新技術を滑走路に組み込んだD滑走路は話題性があった。加えて、江戸時代からの漁師町がセットになればさらに興味も深まる。

いつだったか、「ブラタモリ」の制作担当ディレクターの一人からメールが入った。銀座、丸の内などを担当したディレクターだった。彼いわく、羽田を担当するディレクターから羽田空港とセットの羽田漁師町が番組にならず困っているとのこと。話ぐらいであればと相談に乗ることにした。

羽田担当ディレクターから来た最初のメールは「七曲がりと呼ばれる道はどうして7回曲がっているのでしょうか?」というものだった。地図を見ると、確かに7回曲がっている。「調べたこともないのでわからない」と返答したら、次のメールで「一度、下調べの時に羽田を一緒に歩いてくれませんか」との返信があった。

気乗りしないまま、一度くらいはと漁師町の羽田を歩くことになった。ここから、冷たい雨の降る日を選んだかのように、雨の羽田を3回も粘り強い担当ディレクターと歩くことになってしまった。

「く」の字に曲がった路地


多摩川河口から見た羽田沖

多摩川の河口の砂州にできた羽田空港付近は、潮水と真水が混じり合う。多くの魚介類が生息する魚場である。漁を生業としてきた漁師の町が今も羽田空港のすぐ近くにある。

羽田は鎌倉時代に武士たちが羽田に住み着き漁をはじめたという言い伝えがある。羽田に来た武士は7人。その末裔は、今も羽田に住み続けるという。だが、現在の羽田の漁師町に当然ながら、当時の建物が残っているわけでもなく、鎌倉時代の残像を容易に見つけだすことはではない。しかも時代が下り江戸時代には、江戸市中の人たちの胃袋を満たす漁業が盛んとなり、近世の空間の仕組みが中世姿を消し去ってしまってもいた。「でも、本当にそうだろうか?」疑問からのスタートだった。


海老取川に停泊する漁船

現在の地図をひろげながら、担当ディレクターと羽田の町を海老取川、多摩川沿いを歩く。彼女いわく、多摩川沿いに係留された多くの船を指して「古くから、このあたりが漁師町の中心だと皆さんが言っています」と核心的に話す。確かに、漁船が多く係留されている。多摩川弁天を通り過ぎたあたりから、目の錯覚であるかのように私たちが歩いているメインの道に対して漁師町の内側に入る道が斜めに通っていることに気づく。

さらに、その先の路地は“くの字”に曲がっている。「本当に多摩川沿いが古くからのメインの湊だったの?」と問い返すと、「皆さんがそう言いますから……」と繰り返すだけ。ただ、暴れ川の多摩川に面して、湊など中世にはつくらない。伊勢湾の大湊、日本海の新潟などの港町は、堆積した自然堤防を背に町と湊がつくられている。

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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