足利家――源氏の中で名門として生き残り、幕府を開くことができた理由(1/2ページ)
菊地浩之
2020/09/17
足利尊氏像(浄土寺蔵/Wikipediaより)
源氏の中で「足利家」がなぜ名門とされたのか
足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、室町幕府を開いたのは、当時の武士から圧倒的な支持があったからである。後醍醐天皇による建武の中興が期待外れに終わり、武士たちは「代わりに政権を取ってくれるとしたら、武家の名門・足利尊氏しかいない!」と尊氏に期待を寄せた。
ではなぜ、足利家が武家の名門だったかというと、先祖・足利義兼(よしかね)が源頼朝の従兄弟だったからだ。足利家は源氏の名門だが、源氏の血脈でいうと、足利義兼は源頼朝の父の又従兄弟(またいとこ。父同士が従兄弟)で結構血縁的には遠い。だが、母同士が義理の姉妹だったので、まぁギリギリ従兄弟待遇だった。
源平合戦の過程で、源頼朝が従兄弟の木曽義仲を滅ぼしたことは有名だが、それ以外の源氏もかなり殺したり、失脚させている。源平合戦は源氏と平家の合戦であると同時に、全国に散らばった源氏の統領争奪戦でもあったのである。その中で、従兄弟の足利義兼は頼朝にかわいがられ、北条政子の妹と結婚。北条氏との婚姻関係を続けて、鎌倉幕府では好待遇だった。
だから、足利家は武家の名門と認識されていたのである。
北条との関係強化で生き残り
足利家は、その力の源が北条家との姻戚関係にあることをよくよく自覚していたらしい。そのため北条家の嫡流(徳宗家:とくそうけ)に近い母親から生まれた子どもに家督を継がせていた。
義兼の孫・足利泰氏は、はじめ名越朝時(なごえ ともとき)の娘との間に生まれた足利家氏(いえうじ)を嫡子にしていたが、執権・北条泰時の孫娘を後妻に迎えると、その間に生まれた足利頼氏を嫡子として、足利家氏を廃嫡にしてしまったほどだ(家氏の子孫は鎌倉時代末期まで足利姓を名乗り、一族でも最も家格が高かった。室町時代になって、やっと斯波(しば)に改姓し、足利将軍家に臣従したくらいだ)。
足利家で家督を継げなかった庶子の子孫は、細川・畠山・吉良(きら)・今川・一色(いっしき)・渋川・仁木(にっき)など(に斯波家が加わる)、のちの室町幕府で重臣を構成した。その多くが愛知県三河地方の地名に由来している。
・細川 三河国額田郡細川村(愛知県岡崎市細川町)
・仁木 三河国額田郡仁木村(愛知県岡崎市仁木町)
・吉良 三河国幡豆郡吉良村(愛知県西尾市吉良町)
・今川 三河国幡豆郡今川村(愛知県西尾市今川町)
・一色 三河国幡豆郡一色村(愛知県西尾市一色町)
この記事を書いた人
1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。